有馬哲夫(早稲田大学教授)

志位共産党委員長の誤解


 今年5月20日の国会の党首討論で、安倍晋三首相と志位和夫共産党委員長のあいだに次のようなやりとりがあり、話題になった。

 志位委員長「総理はポツダム宣言の、日本の戦争は誤りであるという認識を認めないのか」

 首相「われわれはポツダム宣言を受諾をし敗戦となりました。ポツダム宣言の、日本の戦争の誤りを指摘した箇所については、私はつまびらかに読んでないので、いまここで答えられない」

 志位氏の論理は「日本の戦争は誤りである」としたポツダム宣言を日本は受諾し、降伏したのだから、日本は先の戦争を誤りであると認めたのだ、だから安倍よあの戦争が誤りであったと認めよ、ということだ。首相は「誤りではない」といえば、国内外の反日メディアが大喜びでこの発言を世界に広めるので、賢明にもこうかわしたのだろう。

 この勝負、志位氏の勝ちで、安倍氏の負けだろうか。歴史的事実に照らせば逆である。ポツダム宣言中には、少なくとも「日本の戦争は誤りである」と解釈できる部分はない。もっともそれに近いことをいっているのは、次の第4条と第6条だ。

 4.日本が、誤った計算により自国を滅亡の淵に追い込んだ軍国主義的助言者の支配を受け続けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。

 6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れえないからである。

 問題は主語である。第4条では、「自国を滅亡の淵に追い込んだ」のは「軍国主義的助言者」になっている。第6条でも「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた」のは「過ちを犯させた勢力」「無責任な軍国主義者」になっている。

 ポツダム宣言ではJapan, the people of Japan, the government of Japan, the Japanese armed forces, militaristic advisersという主語が注意深く使い分けられていて、けっして混同されていない。なにより、天皇にも皇室にも言及されていない。これは偶然ではなく、そこに作成者が細心の注意を払っていたからだ。

 とくに注目すべきは、第4、第6条でも明らかなように、軍国主義者、軍国主義的助言者と日本(および皇室)、日本国民、日本政府をはっきり区別していて、誤っていたのは、前者であって、後者はその被害者だとしていることだ。前者は日本軍や日本の軍部とすら区別されている。これは草稿の段階からあったもので、まさしくそれを意図しているのだ。

 つまり、戦争責任は軍国主義者と軍国主義的助言者(日本軍や日本の軍部ではない)にあるのであって、連合国はけっして日本(天皇)や日本国民に戦争の責任を負わせたり、その罪を問うたりしない、また、無条件降伏を求めるのは日本軍にであって、日本や日本国民にではない、だから早期に降伏せよということだ。

 志位氏は「日本の戦争は誤りである」といったが、この物言いは、軍国主義者、軍国主義的助言者と日本(天皇)、日本国民を明確に区別してあるものを、わざわざ混同してポツダム宣言の趣旨を捻じ曲げたものといえる。
党首討論で質問に立つ共産党の志位和夫委員長(左)。右は安倍晋三首相=5月20日、国会・衆院第1委員室(酒巻俊介撮影)
 ポツダム宣言の作成者は、これを受け取ったとき「日本の戦争は誤りである」と日本側が受け取ることがないよう細心の注意を払ってこのような表現にしたのである。なぜなら、志位氏のような言い方をしたなら、日本人および日本軍はポツダム宣言を受諾できず、本土決戦を決意することを知っていたからだ。また、彼らは、自らの開戦期の経験から、日本がアメリカに「誤った戦争」を仕掛けたのではないことをよく知っていた。

 志位氏は驚くだろうが、もとはといえばこの宣言は、日本を開戦に追い込んだローズヴェルトの仕打ちを批判し続けた「碧い眼の天皇崇拝者」が、皇室を残すために考え出したものなのだ。したがって、志位氏の恣意的な解釈は、この作成者の意図からみてもまったくの誤りだといえる。そこで、本論では、ポツダム宣言は誰が何のために作ったのか、それがどのように変遷して、1945年(以下西暦は最後の二桁のみ)7月26日に出されることになったのか、その経緯をたどることにしたい。

ローズヴェルトの二つの負の遺産


 43年1月、フランクリン・ローズヴェルト大統領は突如として「無条件降伏」方針を唱え始めた。つまり、敵国が無条件降伏するまで戦争を止めないということだ。なぜ、このような方針を打ち出したかといえば、日本軍はミッドウェー海戦以来頽勢が明らかで、ドイツ軍もスターリングラードの戦いで崩壊しつつあったからだ。これを見て、英国が日本と、ソ連がドイツと単独講和を結ぶ恐れがあった。だから、敵国が無条件降伏するまで戦争を遂行することを原則とすることで、両国の戦線離脱を防ごうとしたのだ。

 しかし、この方針は敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして陸海軍の幹部はもとより、国務長官コーデル・ハルまで反対した。にもかかわらずローズヴェルトは死ぬまでこの方針に固執した。

 45年4月12日にローズヴェルトが死去し、大統領職をハリー・S・トルーマンが引き継いだが、新大統領は律義にも就任後のアメリカ議会両院合同会議で前大統領の無条件降伏方針を変えないと表明し、その後のソ連との交渉のなかでも方針変更はないと明言した。

 しかし、前年の44年11月に国務次官となり、翌年1月に国務長官代理になっていたジョゼフ・グルーは、軍の幹部や前国務長官のハルと同様、無駄に戦争を長引かせる無条件降伏方針に反対だった。加えて、彼は45年3月の段階で、彼のかつての部下で当時OSS(戦略情報局、CIAの前身)スイス支局長になっていたアレン・ダレスから、日本人が考えている降伏条件は皇室を残すことだけだというインテリジェンスを受け取っていた。これは、その後スイス、バチカン、スウェーデン、ポルトガルなどのヨーロッパの中立国のOSS局員から上がってきたインテリジェンスによって裏付けされた(詳しくは拙著『「スイス諜報網」の日米終戦工作』〔新潮社〕に譲る)。これはグルーを大いに勇気づけた。彼は、皇室の存続を条件として日本と早期講和を結ぶのが最良の策と考えていたからだ。

 31年以来、10年間の長きにわたり駐日アメリカ大使を務めたグルーは、日本の皇室と経済エリートを中心とした体制は、アメリカの金融資本の有利な投資先として、アメリカ大企業の技術の有望な移転先として、アメリカの国益にとって必要だと考えていた。したがって、強硬な態度をとって日本を戦争に追い込むべきではないと繰り返しローズヴェルトに説いていた。

 その努力もむなしく、ローズヴェルトの強硬策が戦争を引き起こしてしまったが(グルーはそのように理解していた)、それが終わりつつあるとき、どういう巡り合わせか、国務次官(2度目)となり、国務長官代理となった。グルーの日本に対する考え方は、このときもいささかも変わってはいなかった。

 皇室を中心とした保守的エリート層を温存して、日本の共産化を防ぎ、戦後もアメリカ金融資本と大企業の優良な投資先・技術移転先としていきたい、そのため破壊と労働力喪失がこれ以上進まないよう早期に戦争を終結させたいというのが彼の思いだった。

 だから、日本人が考えている降伏条件は皇室の存続の保障のみというインテリジェンスがヨーロッパの中立国のOSSから上がってきたとき、彼は、わが意を得たり、と感じた。

 そのグルーに衝撃を与えたのは、前大統領ローズヴェルトの二つの負の遺産だった。ローズヴェルトが死去したあと、彼の軍事顧問のウィリアム・リーヒ提督がホワイトハウスの金庫から「ヤルタ協定関係書類」を出してきて、ハリー・S・トルーマン新大統領に渡した。そのなかには、ソ連に対日参戦と引き換えに千島列島と満洲での利権を引き渡すとした、いわゆる極東密約も含まれていた。

 この密約が実現すれば、共産主義がアジアに広まり、日本が共産化する恐れも出てきてしまう。そこで、グルーは5月8日にこの密約の破棄をトルーマンに勧告したが、5月12日の3人委員会(陸軍・海軍・国務長官から成る)で、密約で引き渡されるとされた地域はいずれにせよソ連の勢力下に入ってしまうので、見直しの意味はないという結論が出た。

 この過程で、グルーはローズヴェルトに、もう一つの負の遺産(グルーから見て)があることをスティムソンから知らされた。極秘に開発されていた原爆が8月には使用可能になるということだ。グルーにとっては、前述の理由で、日本に原爆を使用するなど問題外だったが、開発責任者のスティムソンは使用に肯定的で、パールハーバーの騙し討ちへの復讐を公言しているトルーマンも消極的とは考えられなかった。

 このときからグルーの早期和平の努力は、原爆投下とソ連の対日参戦の防止の意味をもつようになった。それを達成するには、皇室の維持を条件とした降伏案を日本側に提示するのが1番なのだが、これはローズヴェルトの無条件降伏方針を引き継ぐとしたトルーマンらアメリカ政権幹部からは、方針に反する日本側への妥協だと受け止められていた。

 そこで、グルーは、表向き日本に対する最後通告ないし警告でありながら、事実上条件付き降伏案と取れるものを作成し、大統領に日本向けに発表させることを考えた。その草案の作成をグルーは5月26日に駐日大使時代からの腹心で、当時国務次官補ジェイムズ・ダンの特別補佐をしていたユージン・ドゥーマンに電話で命じた。これがポツダム宣言の原型となる。