加瀬英明(外交評論家)

8月15日の消えない2つの思い出


 また、暑い8月が巡ってくる。

 70年前の8月7日に、広島に原爆が投下され、その2日後に長崎が原爆に見舞われた。

 私より20歳年上になるが、「陸軍航空の撃墜王」といわれた、田形竹尾氏と親しくさせてもらった。平成19年に故人になられたが、田形准尉は終戦の前年の10月に、台湾上空で三式戦闘機『飛燕』を駆って、20数分の空中戦でアメリカ・グラマンF6Fを6機撃墜したことによって、知られている。

 私は田形氏の九州の実家に招かれて、丘の中腹に建つ農家で、御馳走になったことがあった。「わたしが2枚翼の練習機ではじめて単独飛行を行って、郷里を訪れることを許された時に、高度を低く下げて、この縁側のすぐ前を飛び抜けました。父と母と一族郎党が、庭に総出になって、日章旗(ひのまる)を振りながら、歓呼してくれたのを忘れません」と、いった。

 田形氏は広島に原爆が投下された3日後に、任地へ向かう途中、満員だった列車が広島駅で数時間停まったので、屋根が吹き飛ばされ、柱やわきのレールが、まるで飴細工のように捻じ曲がった駅舎の外へ出た。

 すると、顔や、腕が無惨に焼き爛れた婦人や、子供たちに囲まれた。

 目を背けるような火傷を負った老婆や、女性たちが、田形准尉の軍服の胸に、銀色の航空徽章がついているのを認めて、口々に「この仇をかならず討って下さい! お願いします!」と叫びながら、胸にとりすがった。

 田形氏は「これが生涯忘れることができない、2つの思い出です」と、いった。

フーバー元大統領の回顧録 広島への原爆投下への強い意見


 4年前に、ルーズベルト大統領の前任者だったフーバー大統領の『フーバー回顧録』が、アメリカ有数のフーバー研究所から刊行された。957ページにのぼる大著である。

 このなかで、フーバー大統領は広島への原爆投下を、強く非難している。

 「1945年7月のポツダム会議の前から、日本政府は和平を求めている意向を、繰り返し示していた。ポツダム会議はこのような日本の動きを、受けて行われた」

 「ヤルタ会議が1945年2月に催されたが、その翌月に、日本の重光葵外相が東京駐在のスウェーデン公使と会って、本国政府に和平の仲介を求めるように要請した。ここから進展はなかったが、日本が和平を求めている決意を、はっきりと示したものだった」

 「7月26日に、ポツダム会議が日本に対して最後の通告を発するまで、日本は6ヶ月にもわたって、和平について打診していた。
 日本は原爆投下の2週間前に、ソ連に対して和平の明らかな意向をもっていることを知らせていたが、トルーマンも、バーンズ、スティムソンも、日本の外交電文を傍受解読して、承知していた」。バーンズは当時の国務長官、スティムソンは陸軍長官である。

 「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を、疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を、示していた。これはアメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」

 後にアメリカの第34代大統領となった、ドワイト・アイゼンハワー元帥が、スティムソン陸軍長官から、広島に原子爆弾を投下することを決定したと知らされた時に、「日本の敗色が濃厚で、原爆の使用はまったく不必要だと信じていたし、もはや不可欠でなくなっていた兵器を使うことは、避けるべきだと考えた」と、回想している。当時、アイゼンハワーはヨーロッパ戦線における、連合軍最高司令官だった。

一億総特攻を否定した御聖断


 今月、私は日頃、親しくしている著名な歴史学者から頼まれて、次著の原稿を読むことがあった。

 そのなかで、原爆が投下されることがなかったら、日本が降伏することがなく、本土決戦が戦われて、国民にはるかに大きな犠牲が強いられた、原爆投下を招いた政府、軍の指導層の責任を問うことが今日までないのはおかしいと、論じられていたのに唖然とした。

 日本が原爆が投下されたために、連合国に降伏したということは、まったく当たっていない。

 軍は広島、長崎に原爆攻撃が加えられたにもかかわらず、「一億総特攻」を呼号して、本土決戦を戦うことを主張していた。昭和天皇による御聖断によって、終戦がもたらされた。

 日本が降伏を決意したのは、前月末に『ポツダム宣言』が発せられて、無条件降伏を要求してきた『カイロ宣言』が、条件付き降伏に大きく改められたからだった。『ポツダム宣言』は「われらの条件は左の如し。それから逸脱することはなし」と、述べている。

 私は終戦の経緯について、当時の多くの関係者に面接して、研究してきた。原爆投下については、トルーマン大統領が8月に、原爆を使用することを決定したホワイトハウスの会議に出席した、ジョン・マケロイ国防次官と夕食をともにしたことがある。

原爆使用がなくとも日本は降伏したと語ったところ…


1941年、対日宣戦布告書に署名するフランクリン・ルーズベルト
大統領(Wikimedia Commons)
 私はいまから25年前に、広島、長崎に原爆を投下した、アメリカ陸軍航空隊第509混成団の最後の隊友会(リユニオン)が、原爆投下実施部の訓練のために設けられた秘密基地があった、ネバダ州とユタ州の州境のウエンドオーバーで催された時に、記念講演を行うために招かれた。私がB29『エノラ・ゲイ』号から広島、長崎に原爆を投下した指揮官のポール・ティベッツ准将(退役)をはじめとする隊員と、その家族を前にして、「原爆を使用がなくても、日本は降伏した」「原爆投下は国際法の重大な違反だった」と話しているあいだに、聴衆の八割が抗議のために廊下に出て、つぎつぎと愛国歌を合唱した。

 先の対米戦争について、日本国民の多くの者が軍部が暴走したために、無謀な戦争に突入したと思っている。

 フーバー大統領は回想録のなかで、占領下の日本を訪れた時に、マッカーサー元帥と3回にわたって、余人をまじえずに会談したが、「日本との戦争をもたらしたのについて、ルーズベルトという狂人(マッドマン)1人に責任があった」と述べたところ、「マッカーサーも同意した」と、回想している。

 日本は20世紀に入ってから日米開戦まで、アメリカの国益を損ねるようなことは、何一つしていなかった。

 ルーズベルトは、母方の祖父が清との阿片貿易によって巨富を築き、幼少の頃から中国に強い愛着心をいだいていたために、日本を嫌っていた。日本は中国本土を侵略する計画を、まったく持っていなかったが、中国による度重なる挑発に乗せられて、日中間の戦闘が不本意に拡大していった。

 アメリカは国際法に違反して、蒋政権に大量の資金、武器援助を行うかたわら、次々と日本を圧迫して締めあげていった。日本は追い詰められて、自存自衛のために立ち上った。

 日本軍は勇戦敢闘して、太平洋に散らばる多くの島々において、孤立無援の状況下で玉砕していった。

敗北のなかでも真実の客観化は必要


 トルーマン政権が条件付降伏に切り換えたのは、統合参謀本部が本土決戦を行ったら、戦争が1947(昭和22)年まで続き、アメリカ軍に100万人以上の死傷者がでると見積もったからだった。

 玉砕した部隊や、特攻隊の勇士たちが、日本を救ったのだった。けっして無駄死にではなかった。もし、アメリカが無条件降伏を要求し続けたとすれば、原爆が投下されても、本土決戦が戦われたはずだった。

 私は5月に先の戦争について、『大東亜戦争で日本はどう世界を変えたか』(ベスト新書)という新著を刊行して、いったい何が正しい事実だったのか詳述した。好評で5月のうちに再版となった。ぜひ、お読み頂きたい。

 日本は正しい歴史を奪われた国家と、なっている。そのために記憶を喪失した人と同じように、正常な国家生活を営むことができない。
(『加瀬英明のコラム』2015年7月31日分より転載)

かせ・ひであき 昭和11年、東京生まれ。慶応大経済学部卒業後、米エール大とコロンビア大に留学。42~45年にブリタニカ国際大百科事典の初代編集長を務め、その後は外交評論家として執筆や講演で活躍している。