榊原智(産経新聞 論説委員)

 安倍晋三首相が戦後70年談話(安倍談話)の作成に向けて設置した私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(有識者懇)が6日、報告書を首相に提出した。
 
 有識者懇の正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」で、座長は西室泰三日本郵政社長、座長代理は政治学者の北岡伸一国際大学長だ。
 
 報告書が、日本の安全保障分野での日本の役割の拡大や、平和や法の支配、自由民主主義、自由貿易体制などからなる国際秩序の維持の重要性を強調していることは評価できる。一方で、歴史問題に関して、満州事変以降の日本の戦争を「侵略」と明記しつつ、おわびの必要性は指摘しなかった。これらの問題は、いろいろ論議されるだろう。
 
有識者会議「21世紀構想懇談会」の座長・西室泰三日本郵政社長(左)から報告書を受けた安倍晋三首相=8月6日午後、首相官邸(酒巻俊介撮影)
 

アジア解放と日本

 
 そこで本稿は、別の論点を取り上げたい。大東亜戦争(太平洋戦争)をめぐって、歴史的事実を踏まえていないように思われる箇所があるからだ。
 
 報告書の「20世紀の世界と日本の歩み」の項に、次のようなくだりがある。
 
 「日本の1930年代から1945年にかけての戦争の結果、多くのアジアの国々が独立した。多くの意志決定は、自存自衛の名の下に行われた(もちろん、その自存自衛の内容、方向は間違っていた。)のであって、アジア解放のために、決断したことはほとんどない。アジア解放のために戦った人は勿論いたし、結果としてアジアにおける植民地の独立は進んだが、国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない。」
 
 「20世紀の世界が経験した二つの普遍化」の項では、次のように記されている。
 
 「英国、フランス、オランダなどの東南アジアにおける植民地も、日本の進出によって大きな打撃を受けた。戦後、英国、フランス、オランダは植民地支配の回復を目指したが、これを実現することはできなかった。日本はアジアの解放を意図したか否かにかかわらず、結果的に、アジアの植民地の独立を推進したのである。」
 
 敗れたにもかかわらず、日本の戦いがアジア諸国の独立をもたらしたことは報告書も認めるが、それはあくまで「結果として」であり、日本が意図したものではないという。
 
 日本が大東亜戦争において、欧米諸国が植民地にしていたアジアの解放を目指して戦った意味合いがあることを、正面からとらえたくないような書きぶりである。
 
 国の命運と多くの国民の生命を賭して戦う以上、日本の戦争目的は、自存自衛が第一であったのは当然だ。しかし、それとともに、アジアの解放も目的だったことは、はっきりと認めるべきではないだろうか。
 
 

大東亜会議――72年前の人種平等サミット

 
 日本が世界史に果たしてきた役割はいろいろあるだろうが、20世紀における最も大きなものは、日本の行動がアジア諸国の独立をもたらし、白色人種優位の世界から、今のような人種平等の世界をつくる原動力となったことである。
 
 この話は、戦争の相手だった欧米諸国が嫌う話である。しかし、私たちは知っておいたほうがいい。そうでなければ、父祖の世代が戦ったあの戦争の意味合いを、私たちはバランスよくとらえることができない。
 
 大東亜戦争当時の日本が国策として、アジアの独立、人種差別の撤廃を目指していたことは、1943年(昭和18年)に東京で開かれた、史上初めての有色人種の国々によるサミット(首脳会議)である「大東亜会議」と、その際の「大東亜共同宣言」を振り返れば、容易にわかるはずである。
 
 筆者は産経新聞の紙上で、大東亜会議について何度か触れたことがあるが、改めて紹介したい。これはいわば、72年前の人種平等サミットなのである。
 
 1943年11月5、6の両日、東京の帝国議会議事堂で大東亜会議は開かれた。今、安全保障関連法案をめぐって侃々諤々の議論が繰り広げられている国会議事堂である。当時の新聞は大ニュースの扱いだった。現代の日本人が忘れているのが不思議なほどだ。
 
 出席したのはアジア7カ国の首脳である。フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマ(ミャンマー)のバー・モウ国家元首、タイのワンワイタヤコーン殿下、中華民国(南京政府)の汪兆銘主席兼行政院長、満洲国の張景恵国務総理、日本の東条英機首相、それにオブザーバーのチャンドラ・ボース自由インド仮政府首班だった。
 
 現代風にいえばアジア首脳会議、アジアサミットで、いずれも日本の同盟国、友好国の首脳が出席した。
 
 錚々たる顔ぶれだった。フィリピンのラウレルは戦後、逮捕されたが1948年に恩赦となり、1951年の上院議員選挙でトップ当選するなど政界で活躍した。
 
 タイの王族、ワンワイタヤコーンは1947年には国連総会の議長を務めた。外相、副首相も歴任している。
 
 ビルマのバー・モウは戦前、仏・ボルドー大、英・ケンブリッジ大へ留学し、哲学博士、弁護士になった。植民地政府の首相となるが、辞任後は独立運動に身を投じ、反乱罪で英当局により獄につながれた。
 
 汪は中華民国の成立宣言を起草した辛亥革命の志士で、孫文の側近だった。蒋介石と並ぶ中国国民党の有力者だったが、日中戦争の最中に、和平を唱えて重慶から脱出し、その後、南京政府を樹立した。南京政府は日本と同盟を結び、日本は治外法権を撤廃し、租界を返還している。1944年にがんで死去した。
 
 満洲国の張は、清朝の軍人から中華民国の陸軍総長、軍事参議院総長を経て、最後の清の皇帝だった溥儀が即位した満洲国のナンバー2になった人物である。戦後はソ連に逮捕され、1959年に中華人民共和国で獄死している。
 
 チャンドラ・ボースは、インド独立運動の大立て者だった。終戦時に台湾での飛行機事故で亡くなったが、独立運動指導者としてガンジー、ネルーとともにインドの国会議事堂に肖像画がかかっている。日本は、海軍が占領したインドのアンダマン、ニコバル諸島を自由インド仮政府の領土として贈っている。
 
 悲劇として知られる1944年のインパール作戦は、日本軍とともに、自由インド仮政府の6千人のインド国民軍が「進め、デリーへ」を合言葉に、インド北東部の都市、インパールの攻略を目指した戦いだった。
 
 

有色人種の国々が世界に訴えたこと

 
 大東亜会議が世界に向けて出した大東亜共同宣言は次のようなものだ(読みやすい表記に改めた)。
 
 「抑々(そもそも)世界各国が、各其の所を得、相扶(たす)けて万邦共栄の楽を偕(とも)にするは、世界平和確立の根本要義なり。
 
 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ、大東亜隷属化の野望を逞(たくまし)うし、遂には大東亜の安定を根柢(こんてい)より覆さんとせり。大東亜戦争の原因茲(ここ)に存す。
 
 大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基き大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。
 
一、大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基く共存共栄の秩序を建設す
一、大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実を挙げ、大東亜の親和を確立す
一、大東亜各国は、相互に其の伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢(しんちょう)し、大東亜の文化を昂揚(こうよう)す
一、大東亜各国は、互恵の下、緊密に提携し、其の経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進す
一、大東亜各国は、万邦との交誼をを篤(あつ)うし、人種的差別を撤廃し、普(あまね)く文化を交流し、進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す」
 
 現代文で置き換えてみてほしい。戦争の完遂という戦時中の外交文書である点を除き、他の部分は、普通の首脳会議の宣言にしてもおかしくない内容であることがわかる。その中で、「人種差別の撤廃」「相互に自主独立の尊重」といった表現があることは、欧米植民地支配に対峙する宣言だったことを示している。
 
 会議が開かれた1943年11月は、日本の敗色が感じられるようになった時期だ。それにもかかわらず、アジア7カ国の代表が東京に集まった。日本が要請したからであるが、無理強いしたから集まったにすぎないととらえる人がいるなら、戦勝国の史観にとらわれすぎている。当時の人たちの人種差別や欧米支配への憤りを軽んじるのは、歴史の多面的見方から遠ざかることになるだろう。
 
 チャンドラ・ボースは、大東亜会議で次のように語った。
 
 「かつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しく彷徨したことのある国際連盟の決議、そしてその廊下やロビーを想起しました。
 
 この歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを想います。
 
 この会議は、戦勝者同士で戦利品を分割するための会議ではありません。これは弱小国家を犠牲にしようとする陰謀、謀略のための会議でもなく、また、弱小な隣国を欺くための会議でもありません。この会議は、解放されるべき諸国民のための会議であり、即ち、正義と国際関係における互恵主義および相互援助の原則に基づいて、この東亜の地域に新秩序を創建するための会議なのであります」
 
 フィリピンのラウレル大統領は、「我々は今後再び既往のごとく離散することなく、圧迫、搾取および圧政にあくまでも抗争し、10億のアジア民衆は少数西洋強国の支配および搾取の犠牲とは再びならないことを世界に向って宣言し得る次第であります」と演説した。
 
 米英両国は、1941年に出した大西洋憲章において、人民に政府の形態を選択する権利があると謳った。しかし、英国のチャーチル首相は、その権利は欧州だけのものでアジア・アフリカの植民地には適用しないと述べていたのである。
 
 

重光葵――20世紀日本を代表する外交家

 
 東条内閣において大東亜会議を推進したのが、重光葵(まもる)外相だった。
 
 重光は、20世紀の日本における屈指の外交家である。戦時中は、東条内閣後期と小磯国昭内閣の外相を務めた。終戦後、東久邇宮稔彦王内閣の外相となり、政府全権として米戦艦ミズーリ号艦上での降伏文書調印式に臨んだ。その後、A級戦犯として逮捕、起訴され、東京裁判で有罪判決(禁固7年)を受けて服役した。
 
 日本の再独立後、衆議院議員に当選し、鳩山一郎内閣の副総理・外相を務め、日ソ国交回復に尽力した。1956年に日本が国際連合に加盟した際には日本政府代表として国連総会に赴き、加盟受諾の演説をして大きな拍手を浴びている。
 
 重光が大東亜会議と大東亜共同宣言を推進したのは、日本の戦いの目的が自存自衛にとどまらず、アジアの解放にあることをはっきりと世界に示すねらいがあった。
 
 当時、重光は東条に「これで英米の大西洋憲章に対抗できます。大東亜会議を開けば、大東亜戦争の目的はアジアの解放にありという、わが国の戦争目的の正当性を世界に示すことができます」と語っている(福冨健一著『重光葵連合軍に最も恐れられた男』講談社)。
 
 昭和天皇も、重光に「これを進めるべし」と述べられ、大東亜会議を明確に支持していた(前掲書)。
 
 イギリスの歴史家、アーノルド・トインビーは、日本の戦争目的の中に、アジアの解放があったことを認め、歴史的意義を見いだしている。
 
 「第2次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間考えられていたような不死の半神でないことを明らかにした点にある。イギリス人もフランス人もアメリカ人も、開戦当初、ともかく我々はみな将棋倒しのようにやられてしまった」(英紙「オブザーバー」1956年10月28日)と指摘している。
 
 有識者懇の報告書との見方とは大きく異なる。
 
 

第1回バンドン会議で大歓迎された日本

 
 もう1つ、筆者が今年1月に産経新聞の記事とし、その後加筆して産経のオピニオンサイト「iRONNA」に載せた「戦後70年落ち着いて歴史を語れる国に」を引用したい。
 
 (---引用始め---)
 
 「よく来たね!」
 
 「日本のおかげだよ!」
 
 日本代表団の団長、高碕達之助経済審議庁(のちの経済企画庁)長官ら一行は、独立したばかりのアジア、アフリカの新興国の代表たちから大歓迎され、相次いで温かい声をかけられた。
 
 1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれた第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議、A・A会議)での出来事である。
 
 この会議は、第二次大戦後、欧米の植民地から独立したアジア・アフリカの29カ国の代表が一堂に会した国際会議である。
 
 日本は招待状をもらった。占領が終わって国際社会に復帰して間もない時期の日本にとって、不安を抱えながらの参加だった。政府内には見送り論もあったほどだが、案に相違してうれしい歓迎を受けたのだ。
 
 高碕代表に同行した加瀬俊一(としかず)代表代理(国連加盟後の初代国連大使)は生前の講演で、次のように振り返った。
 
 「(各国代表からは)『日本が、大東亜宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。
 
 この時は『大東亜宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも、日本のお陰ですと、『やぁー、こっちへ来て下さい』、『いやぁ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました」。
 
 その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカ(A・A)グループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いて来たのです」
 
 これは1994年7月、京都外国語大学で加瀬氏が講演した話だ。『シリーズ日本人の誇り1 日本人はとても素敵だった』(揚素秋著、桜の花出版、2003年刊)の巻末に、同出版会長、山口春嶽氏が記した文章「シリーズ刊行にあたって」の中で記録されている。
 
 本稿の筆者(榊原)は、加瀬氏の子息で外交評論家の加瀬英明氏にも、この講演の存在と内容を確認できた。講演は、バンドン会議出席者の貴重な証言である。
 
 アジア・アフリカ各国の代表たちは、わずか10年前に終わった日本の戦争を、アジア独立に貢献したという文脈で語っていたのである。
 
 バンドン会議には、白人国家は一国も招かれてはいない。旧連合国が、アジアを侵略した日本からアジアの人々を解放したという見方があるが、当時のアジア・アフリカの代表たちはそんな見方はしていなかったようだ。解放の役割を果たしたのは日本の方だったとみられていたと考えるのが自然である。
 
 (---引用終り---)
 
 加瀬俊一は、重光外相の秘書官として、重光とともに大東亜共同宣言の原案を書いた外交官である。
 
 加瀬は著書(「あの時『昭和』が変わった101歳、最後の証言」光文社)でも次のように記した。
 
 「対米戦争は自存自衛のために追い詰められて、立ち上がった戦いだったが、何百年にもわたって西洋の植民地支配のもとにあったアジアを解放したのだった。開戦三年後の大東亜宣言の原案は、重光外相と私が苦心して書いたものだった。
 
 あの降伏調印式の日にそのようなことは互いにいわなかったが、世界史的な戦いが終わって、日本は人類史によって与えられた役割を果たしたという矜持が、胸のなかにあった。負けたのは事実であっても、精神的にはけっして負けていなかったのだ。そういう意地があった。」(82頁)
 
 「わが国では、戦後、この大東亜共同宣言をもっぱら軍部が占領地域を搾取する煙幕に利用したように解釈しがちだが、真意は日本の戦争目的を宣明するにあった。
 
 いずれにせよ、日本の先の戦争を戦ったために独立したアジア諸国は、今日なお大東亜共同宣言を深く多としている。アジアだけではなく、アフリカの諸民族まで、日本が提唱した植民地解放運動に心から感謝していたことは、私が1955年(昭和30年)にインドネシアのバンドンで催されたアジア・アフリカ(AA)会議に、日本政府代表として出席した時や、初代国連大使として国連にあった時に、親しく感得した。
 
 大東亜共同宣言が日本で軽視され、アジア、アフリカにおいて高く評価されているのは、皮肉である。」(105頁)
 

独立のタネをまく

 
 日本の戦争だけでアジア、アフリカ諸国が独立したのではもちろんない。たとえば、インドネシアは戦後、オランダ軍を相手に激しい独立戦争を戦い、80万人もの犠牲を払って独立を勝ち取った。その戦いに1千人から2千人もの残留日本兵が加わったが、独立戦争の主体はインドネシア人である。
 
 インドネシア独立のために戦う母体となったのは、戦時中に日本が育成した祖国(郷土)防衛義勇軍(PETA、3万8千人)などの青年たちだった。愚民化政策をとったオランダとは異なり、戦時中の日本は官吏育成学校、医科大学、師範学校(教員養成学校)、商業学校などを設けて、国づくりに欠かせない人材を教育していたのである。
 
 世の中の出来事は、多面性があることなど、大人なら誰でも知っていることだ。まして、一国の歴史ともなればなおさらだ。日本では、戦前や戦中の自国の歩みについて否定的にばかりみる言説が、今も満ちあふれている。戦後70年も経ったのに、あまりに公平さを欠いている。
 
 インターネットによって、このような状況は是正されつつあるが、ネットや——恐縮だが——産経新聞などに触れることなく、日本ばかりが悪かったという史観ではない見方があることに気づかない世代、人々はなお多い。
 
 有識者懇の面々は、知識も経験も十分な人々のはずだ。にもかかわらず、日本と「アジアの解放」の関係について、大東亜会議、宣言などを顧みなかったのだろうか。報告書が「国策として日本がアジア解放のために戦ったと主張することは正確ではない」としたのは理解に苦しむところだ。
 
 大東亜戦争をめぐって、日本の戦いの目的や日本人が抱いた理想と「アジアの解放」を関連づけて考察することは、戦争を美化する話では決してない。戦争とは多くの人々が犠牲になる悲劇であることは間違いない。
 
 それでも、戦争を含め一国の歩みにはさまざまな意味合いがある。「有識者」が振り返るというなら、大きな歴史的事実を踏まえることが必要ではないのだろうか。

(この記事は「先見創意の会」2015年08月11日のコラムより転載させていただきました)