島田裕巳(宗教学者)

 このたび、筑摩選書の一冊として『戦後日本の宗教史』という本を刊行した。副題は、「天皇制・祖先崇拝・新宗教」としたが、この三つの事柄を軸に、戦後日本の宗教がどういった歩みを経ていったのか、敗戦から1995年のオウム真理教の事件までを追ってみたのである。

 この本は、私が、この10年ほど研究を進めてきたことの集大成としての性格をもつだけに、是非、多くの読者に読んでもらいたいと考えているが、この本を執筆するなかで、戦後日本の宗教ということを考える上で、「政教分離」という側面が何より重要だということに気づかされた。

 政教分離は、信教の自由とともに、戦後に日本国憲法で規定された原則であり、大日本帝国憲法では、制限つきでしか認められていなかった。

 戦前の日本が軍国主義の方向にむかうにあたって、「宗教にあらず」と規定された神道を国民道徳として強制することが、大きな意味をもったと判断されたことで、日本国憲法では、国と宗教との分離である政教分離が原則として定められたのである。

 日本を占領したGHQは、すぐに「神道指令」を発し、戦前の宗教体制を「国家神道」と呼んで、その国家神道の解体をめざした。戦前から戦時中にかけて、主要な神社は国家によって経済的に支えられていたのが、それが廃止されたのである。

 学校では、「教育勅語」が教えられ、天皇は「現人神」として崇拝の対象になっていた点も改められた。天皇自身も、自らが現人神であることを否定する「人間宣言」を行った。

 その点で、戦後の日本宗教のあり方は、政教分離ということを大原則とするうようになったわけだが、それを徹底させることはかなり難しいことであり、また、さまざまな問題を残す形になってしまった。

 天皇は現人神の地位から降りたものの、明治になってはじまった「皇室祭祀」は、天皇家の私的な信仰として存続し、宮中三殿もそのまま保たれた。大嘗祭のような祭儀や、死後の埋葬の仕方なども、戦前のあり方が受け継がれたし、天皇の継承を規定した「皇室典範」もそれほど大きくは改められなかった。

靖国神社の入り口に立つ大鳥居
 その点では、国家神道の体制は半分温存されたとも言えるし、靖国神社についても、軍の所轄から民間の宗教法人に移行したものの、祭神として祀られる戦没者の名簿の作成は、厚生省(現在の厚生労働省)が行っており、国家との関係は切れなかった。

 しかも、一時は、靖国神社の国家護持を求める運動が盛り上がった。もちろん、政教分離の原則がある以上、その実現は難しかった。実際、靖国法案は衆議院で可決されたこともあったが、結局は廃案になり、国家護持は実現しなかった。

 その際に、反対運動の中心を担ったのが日本共産党系の人々であった。とくに重要なのが津地鎮祭訴訟で、これを提訴したのは共産党の市議だった。これは、市が公共施設の地鎮祭に公金を支出することが、政教分離の原則に違反するかどうかが問われたものだが、途中から、靖国神社の国家護持に反対する人々が支援するようになったことで、反靖国のシンボル的な訴訟に祭り上げられた。

 しかも、裁判所の判断は揺れ、違憲判決も出たことから、政府や自治体が宗教行事に関与することが難しくなり、靖国の国家護持も不可能になった。

 首相の靖国神社参拝についても、公的か私的かが問われるようになり、それに強い制限が加えられるようになる。

 中曽根康弘首相が、1985年にあえて公式参拝を行うと、中国などからの反発が起こり、そこに外交問題としての「靖国問題」が生まれることとなった。A級戦犯の合祀ということが批判されたのは、実はこのときがはじめてだった。

 その点で、共産党の戦略が功を奏したということにもなるが、その一方で、共産党は、1969年から70年にかけて、創価学会・公明党による言論出版妨害事件を告発し、この二つの組織にも政教分離の厳格化を強いる結果になった。具体的には、公明党の議員は、創価学会の幹部を降りなければならなくなり、二つの組織の間に距離が生まれたのである。

 憲法において、政教分離という原則が確立されている以上、靖国の国家護持はもちろん、首相や天皇の参拝も難しくなる。そして、宗教団体が政治力を行使することにも事実上、制限が加えられるのである。

 神道は、現在の考え方では、まぎれもなく宗教であるということになるが、その長い歴史を考えると、個人が選択する宗教ではなく、社会に共有された習俗という面が強い。

 建築物を建てるときに、地鎮祭を行うのも、信仰にもとづくというより、習俗として営まれてきたと見なければならない。

 政教分離の原則は、習俗として営まれる儀礼の実施を阻む方向に作用するわけで、考えようによっては、信教の自由を妨げているとも言える。

 この点をどのように考えるのか。戦後の70年を経験することで、日本人は政教分離の原則にがんじがらめに縛られてしまったとも言えるのである。