『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より


山田寛人(朝鮮教育史研究家)


責任という概念のあいまいさ


 戦争責任と言えば、過去に起きた具体的な事実に基づいて、どこにどのような責任があるのかということを論じるのが一般的である。しかし、本稿ではそのような論じ方はしない。日本の戦争責任に関わる事例を取り上げる前に、まず「責任とは何か」という根本的な問題を素朴な論理的思考によって追究することで、日本の戦争責任について考えるための手がかりとしたい。

 われわれは普段の生活の中で何か問題が起きたときに、比較的軽い気持ちで責任が「ある/ない」と言う。しかし、少し考えてみればわかるように、責任があるのかないのか、ということは簡単には決められない。

 例えば、「Aが手に持ったナイフでBの胸を刺した結果、Bが死亡した」という事件があったとする。この情報だけであれば、Bが死んだ責任はすべてAにあるように見える。

 ところが、そのナイフは元々BがAを刺すためにもっていたもので、Bに殺されそうになったAがそのナイフを奪い返して自分の身を守るためにBを刺したのかもしれない。そうするとAの正当防衛が認められそうである。しかし、Bは自分の家族をAに殺されたことに対する恨みをはらすためにAを襲ったのかもしれない。

 このようにBが死亡したという事実は確かなものであったとしても、その原因は無限にさかのぼっていくことができてしまう。

 そんなことでは収拾がつかなくなるので法律というものがあって、それに則ってどこにどれだけの責任があるのかないのかを、裁判官が判決という形で決めていくのである。つまり、判決を書くのも人間なら、判決の根拠となる法律という約束事をあらかじめ決めているのも人間なのである。人間がすることである以上、絶対に正しいということはあり得ない。

 現に、裁判官によって判決内容が異なることは多々あるし、判決の根拠となる法律自体も人の手によって定められたものであるため、国や時代が変わればその内容も変化する。したがって、判決という形で明らかにされる責任の所在(有罪/無罪)とその度合い(量刑)は、「とりあえずそういうことにしておこう」という程度のものでしかないのである。

 「責任を問う」という行為について、本稿では、三つの段階に分けて考えていく。①どこにどれだけの責任が「あるのか」について、たった一つの解を求めることは原理的に不可能である②しかし、さしあたり、どこにどれだけの責任が「あることにするのか」を決める必要がある③ということは、何らかの事実に基づいて責任の所在を明らかにすること以上に、責任の所在を決める意志がより重要だということになる―。このようにして責任という概念について整理したうえで、それに基づいて日本の戦争責任をどう考えていくべきかについて論じる。

責任の所在と度合いは相対的


 責任の所在やその度合が問われる場合、一般的には、その責任が問われる原因となった行為の結果に基づいて、何らかの判断が下される。ところが、その原因となった行為の結
果が明白な事実であったとしても、その事実に対する評価は一定しないのが普通である。

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終戦から70年を機に日本の宰相として初めて
米上下両院合同会議で英語で演説する安倍
晋三首相=平成27年4月29日
 例えば、通りを渡ろうとした歩行者が車にはねられて死亡したとする。この場合、その車が制限速度を超える速度で走行していたのだからという理由で、運転者に責任があったと判断されるかもしれない。一方、歩行者が横断歩道のないところを無理矢理渡ろうとしていたのだからという理由で、歩行者にも責任の一部があったと判断されるかもしれない。

 また、その車には急病人が乗っていて一刻を争う事態だったために制限を超える速度で走行していたのかもしれないし、その道の向こう側の池で人がおぼれそうになっているのを見つけた歩行者が、急いで横断歩道のないところを無理矢理渡ろうとしたのかもしれない。この場合、運転者にも歩行者にも情状すべき点があったということになり、責任をすべて押し付けられるかどうかは、微妙なものになる。

 さらに、車にはねられた人はケガで済んだ可能性もあったのに、その人を運ぶ救急車が渋滞に巻き込まれたために手遅れになって死に至ったのかもしれないし、運び込まれた救急病院の医師の技術が未熟だったために死に至ったのかもしれない。この場合、死なせた責任は、どこまで運転者にあったことになるのか。これもまた判断が難しい。

 非常に単純な例えではあるが、このように考えてみると、責任の所在や度合を正確に特定することは不可能に近いということがよくわかる。仮に、その結果に至る経緯を「責任判定機」にすべて入力して、責任の所在と度合を出力したとしても、その判定結果にすべての人が一〇〇%納得するということはあり得ないだろう。

 責任というものは、その結果をもたらした原因をたどっていけば自動的に明らかになる、というような性質のものではないのである。

 責任につながる原因は無限にさかのぼることができるからである。さらに、無数の原因のうち、どれを採用するのかは、法律のような約束事に基づいて決めるわけだが、その法律自体が相対的なものであって普遍性を持たない。

 例えば、東京裁判が客観的で公平な裁判だったと考える人はあまり多くはないだろう。東京裁判を例に挙げるまでもなく、どんな裁判でも根本的には同じことである。なぜならば、そもそも責任の所在と度合を決める法律自体も時代や場所によって異なる相対的なものであり、その判決結果に納得いかない人の目から見れば、その法律はどうしても恣意的なものに見えてしまうからである。

 すべての人が納得する約束事にしたがって責任の所在と度合が決められるのが理想なのだろうが、そういうことは現実にはあり得ない。だからと言って、責任を明らかにする必要がなくなるわけでもない。

 重大な結果が生じてしまったのであれば、それに対する責任を追及するのは当然である。何が起きても責任を追及しないということになれば、あらゆる犯罪行為が許され、誰も責任を取らなくてよいことになり、結果として社会秩序が維持されなくなってしまうからである。