奥村喜和男(情報局次長)


 国民諸君、同胞諸君

 日本は、われらの祖国日本は、本日実に重大なる運命の中に突入したのであります。真に皇国の興廃を賭して万里の波涛を拓開せんとする苦難の道へ突進したのであります。

 昭和十六年十二月八日は、日本国民の、永遠に忘るべからざる日となりました。日本の存在する限り、従つて世界の存在する限り、その歴史の上に堅く刻み込まるゝ日となりました。アジア十億の民が、アジアの運命決定(註1)の日として、否、ひとりアジアのみならず、世界の全人類が、ひとしく新らしき歴史創生の日として、永遠に記憶する日となつたのであります。

 本日、米国及び英国に対し、畏(かしこ)くも宣戦の御詔勅(ごしようちよく)が渙(かん)発(ぱつ)せられたのであります。今や御聖断が下つたのであります。帝国は英国とは本日午前一時半に、米国とは午前三時半に、それぞれ完全に戦闘状態に入つたのであります。先刻東條内閣総理大臣は烈々たる信念と凛々たる決意とを以て、一身を捧げて決死報国を誓はるゝと共に、国民各位に天業翼賛の誠を求められたのであります。

 私は、この人類が歴史を有して以来の一大回天の今日、今こゝに襟を正し身を潔(きよ)め、宣戦の大詔(たいしよう)を下し給へる上(かみ)(註2)御一人の大御心(おおみこころ)を拝察しつゝ、日本が今次、米英両国に対し戦を宣するの真に止むを得ざりし所以(註3)を愬へ、一億国民と共にその時の正に到れるを喜ばんとするものであります。

 米国の日本に対する暴戻なる態度は、決して今日に始まつたものではないのであります。日露戦争以来、ハリマン協定(註4)以来、米国の日本の進路に対する執拗なる妨害は、殆んど例を挙げて数ふるの煩に堪へないのであります。アジアを欧米の植民地的状態から解放し、アジアを本来のアジアに復し、アジアに皇道の理想に基づく新らしき秩序を創造せんとする帝国の悲願に対して、米国こそは飽くことを知らず、あらゆる牽制と妨害とをほしいまゝにして来たのであります。

 彼はいはゆる民主主義国家群の最後の選手として、帝国を先覚とする澎湃(ほうはい)たる世界維新の運動の矢面に敢へて立たんとするのであります。彼はその強大な武力を恃(たの)んで、歴史の必然たる世界史転換の方向に抗(あらが)ひ、世界の諸国家に、その独善的にして世界の現実を無視したる時代後れの架空的なる諸原則を強制せんとするのであります。
3388
米ポーツマスで行われた日露講和会議。左から3人目が特命全権の小村寿太郎(明治38年8月撮影)
 わけても、アジアにおいて彼の意図するところは、支那市場の完全なる独占であり、アジアの犠牲においてする帝国主義的膨張であります。思へば米国の東亜への侵略は、ジョン・ヘイの門戸開放要求(註5)以来、既に四十年の生々しき歴史を持つてゐるのであります。今日までアメリカが太平洋において着々と計画を進めて参りましたことは、一にはアジアの政治的支配に在り、二にはアジア資源の経済的独占に在つたのであります。過去二百年に亘る白人のアジア搾取は、米国のアジア侵略の計画に於いて絶頂に達するのであります。

 日露戦争の講和條約の調印もまだ終らぬうちに起つたハリマン協定は、早くもアメリカの野望をあからさまに暴露したものでありました。之に引き続いて執拗に繰り返された満鉄共同経営の提議にいたしましても、満洲中立の要求にいたしましても、いづれも米国がアジアに挑んだ血を見ざる侵略の戦でありました。二十億の国帑と十万同胞の血を流して(註6)漸く確保したる満洲の権益を、そつくり横合ひから奪ひ取らうとしたのであります。さらに一九一〇年の錦愛鉄道協定(註7)といひ、一九一四年の福建省におけるアメリカの軍港設置問題(註8)といひ、陜西省における石油掘削権の獲得といひ、更に又シベリア出兵(註9)の理由なき干渉といひ、どれ一つとして、米国の周到なるアジア侵略計画を示さぬは無いのであります。

 しかしながら、これらのことは未だよい方であります。日本国民の断じて忘れてならぬことは、ヴェルサイユ講和会議後(註10)に開かれたるワシントン会議(註11)におけるアメリカの仕打ちであります。この会議における暴戻なアメリカの態度と仕打ちこそは、断じて日本人の忘れ得ざるところであります。

 米国は英国と共謀して、帝国海軍を五・五・三の劣勢比率に蹴落しました。己等はパナマとシンガポールに世界的に誇るに足る大規模の要塞の建造計画を樹立してをりながらも、日本に対しては却つて太平洋無防備の美名のもとに、日本の皇土たる千島列島と小笠原群島においてさへ、日本自身の防備の制限を強制いたしたのであります。いはゆる九ケ国條約によりまして、日本と支那との歴史的、地理的、政治的、経済的の緊密な関係を切断して、支那の独立及び領土保全の美名の下に、両国をして骨肉相抗し相争ふの不和の関係に追ひ込んだのであります。更に四カ国條約によりましては、太平洋現状維持に藉口(しやこう)して帝国の海洋発展を封じたのであります。かやうにして、帝国の手足を束縛し、帝国の武力を封じて、アジアと太平洋とを彼がほしいまゝなる支配のもとに置かんとしたのであります。このワシントン会議こそは、かの日清戦争後の三国干渉(註12)にも優るとも劣らざる屈辱であります。私は今、このことを語りながらも当時の米国の暴戻なる仕打ちに忿懣やる方なく、正に血の逆流するのを覚ゆるのであります。
2
日本代表の珍田捨巳と牧野伸顕(前列左端の2人)による人種差別撤廃提案を不当に否決したウィルソン米大統領(後列中央)=パリ講和会議国際連盟委員会
 その後十年にして起つた満洲事変は、かやうな英米の利己的なアジア支配体制の強化に対する、止むを得ざるに出でたる帝国の反撃であつたのであります。米英両国―特にアメリカの太平洋における日本圧迫と、その援助を恃む支那の暴戻(ぼうれい)とは、遂に帝国をして自衛の戦ひに出づるの止むなきに至らしめたのであります。国際聯盟(れんめい)の脱退も、ワシントン条約の廃棄も、帝国が自身の危急を認識し、自身の使命に目覚めたからにほかならぬのであります。 

 支那事変は、この満洲事変の意義をそのまゝ承け継いでゐるのであります。この意味において、支那事変は表面はどうあらうとも、本質は肇(ちよう)國(こく)の理想実現に邁進せんとする帝国と、これを妨碍(ぼうがい)し阻止して、アジアを飽くまで自己の都合よき鉄鎖の下に繋いで置かうとする英米両国との決戦であることは、最初から明らかでありまして、この間大陸に戦つた百万の我が同胞は、真の敵の何ものたるやを明らかに我々国民の前に示されたのであります。
121217
支那事変で陥落した南京・国民政府庁舎前で規律正しく入城式を行う日本軍=昭和12年12月17日(『支那事変聖戦写真史』忠勇社)
 時は遂に参りました。時は正に到りました。今こそ帝国は三十年の隠忍の堰を切つて落し、真実の敵に対し堂々戦ひが宣せられたのであります。今こそ米国を、而して英国を、われらは討つのであります。大陸に骨を埋め血を流したる十万の護国の英霊も、このことを知つて定めし地下で感泣してゐることと確信します。 

 この戦ひにおいて、帝国が目的とするところは米国及び英国を討つて、その侵略の魔手よりアジアを護るにあるのであります。久しくアジアを禍(わざわい)したるアングロサクソンの利己的支配を根絶して、その跡の清らかな天地に八紘一宇(註13)の理想による新らしきアジアの秩序を作り出さうとするにあるのであります。 

 曩(さき)に帝国は、今次事変究極の目的は東亜新秩序の建設にありと中外に宣言いたしました。次いでまた日独伊三国同盟の結ばるゝに当りましてもこの大精神に則つて万邦をして各々その処を得しむるを以て、世界恒久平和の先決条件と断定したのであります。これは皇祖肇國の大精神であります。またわれら大和民族が歴史に承けた大使命であります。 

 言ふ迄もなく支那事変の完遂と大東亜共栄圏(註14)の確立とは、帝国不動の国策であります。今日においては支那事変は最早単純なる日支両国間の問題ではなく、また東亜の局地的事件でもないのであります。正にこれは現在人類が直面する世界的規模における変革の戦ひの一(いつ)鐶(かん)であり、世界維新のための大戦争における東亜戦線なのであります。今日支那事変を完遂する道は、世界を掩(おお)ふ変革の戦ひの一戦線としてこれを解決するよりほかに方法はないのであります。重慶(註15)の背後に在つて、執拗にこれを援助しこれを使(し)嗾(そう)して、自己のアジア支配の野望のために支那を戦ひに駆り立てつゝある者(註16)を討たざる限り、永遠にこの戦は、決して終ることはないのであります。思へば日清・日露の昔から、我等の父祖が血をすゝり骨を削るの辛苦を嘗めたのもこの敵のためでありました。私達昭和の国民が、今こそこの父祖以来の仇敵に身を以て当ることが出来るとは、何たる光栄でありませう。 

 支那事変を完遂するといふことは、帝国の周囲に築かれたる米英の包囲陣地を突破して、その勢力をアジアの外に撃攘(げきじよう)して、永く禍の根を絶つことでなければなりません。支那事変を完遂するといふことは、米英が東亜に揮(ふる)ふ魔の力の源泉である南洋及び濠(ごう)亜(あ)地中海(註17)を掌握し、アジアの天地を清掃して、こゝに揺ぎなきまことの平和を築くことでなければなりません。この意味におきまして、支那事変の完遂と大東亜新秩序の確立とは、決して別々のことではないのであります。これは二にして一であります。同一のものの二つの面であります。支那事変を完遂する道は、大東亜新秩序の確立以外にはなく、大東亜新秩序の確立は、支那事変完遂の当然の結果であります。同時に又これは八紘一宇の大訓を実現する所以であります。 

 帝国がその使命に忠なる限り、祖宗の偉勲に忠なる限り、米国との戦争は全く不可避であつたのであります。アメリカがその帝国主義的侵略を断念して、アジアの現状に置き去られたる九ケ国条約を死守するの頑迷を改めて西半球に退去せざる限り、しかして又帝国が、自らの膝を屈して彼の奴隷たるの境涯に甘んじ、アジアの一隅に跼蹐(きよくせき)して、明治維新以前の小日本に還らざる限り、日米の戦ひは結局、避け得られざる宿命であつたのであります。 
1211
支那事変を受けて昭和12年11月に九カ国条約会議が開かれたが日本は欠席、イタリアは日本支持で、米主導の軍縮ワシントン体制が崩壊した(同)
 しかもなほ帝国は、最後まで避け得ざるものを避けんとする誠意を棄てなかつたのであります。事こゝにいたるまで帝国はあらゆる手段を竭(つく)して、あらゆる方法を講じて、太平洋の平和を守護せんがための必死の努力を致したのであります。寧ろ因循の限り、姑息の極と思はるゝまでに、凡そ試み得るすべての方法を竭したのであります。しかしながら、これらの努力はすべて米国によつて蹂躙せられたのであります(註18)。

 一昨年七月、日英東京会談の結果、英国が遂に東亜に行はれつゝある大規模の戦争状態を確認して帝国との協調に向つて進んで参りましたるその折りも折り、米国は突如日米通商航海條約の破棄を申入れて、これによつて英国を牽制したのであります。私は寡聞にして、数十年間平穏に履行して来た通商條約が、一日の予告もなしに一方的に破棄されたる実例を未だ知らないのであります。この無礼を加へられてもなほ、日本は隠忍自重いたしました。遂には作戦上の重大な支障を犯して揚子江下流の開放を約束してまで、アジアの新らしい事態に対する米国の認識の是正を求めたのでありますが、米国はこの帝国の謙譲な要求をさへも、冷然として一蹴したのであります。否、冷然として一蹴したのみではなく、この帝国の謙譲に応へるやうに、彼はアメリカ艦隊の主力をハワイに集結して、太平洋上に武力の示威をさへも敢へてしたのであります(註19)。

 それでもなほ足らず、彼は禁輸に次ぐに禁輸を以てしつゝ、限度を知らぬ経済圧迫を以て帝国に迫つて来ました。今日まで、日本はアメリカによつて経済封鎖を受けてゐたのであります。言う迄もなく、経済封鎖はあらゆる戦争手段の中でも、最も酷烈な効果を有するものであります。これは明らかに武力戦にも劣らざる敵対行為であります。日本はこれでもなほ且つ隠忍したのであります。われらが現在直面してゐる戦争を誘発するために、アメリカこそはあらゆる手段と努力とを傾けつゝあつたのであります。

 帝国は今日まで三十年(註20)、あらゆる譲歩と妥協とを続けて参りました。思へば、長い隠忍の歴史でありました。彼に如何に理解を求めようとも、所詮それは無意味であることを、今こそわれわれは肚(はら)の底から知つたのであります。これ以上の隠忍は隠忍に非ずして屈辱であります。遂に帝国の隠忍の堰も切れました。今日、こゝに米国並びに英国に対する宣戦の大詔を拝しましたことは、まことに妖雲を一掃して天日を仰ぐの心地がいたすのであります。

 先般、臨時議会で東條総理が言明致しましたる三ケ條の外交原則(註21)は、帝国が国家としての独立と権威とを完(まつとう)うし得るための究極の條件でありました。来栖大使の米国派遣は、帝国が譲り得る最後の境界線であるこの三原則を提案して、アメリカの反省を求めたものであります。この期に及んでも、衷心アジアの平和を願ふ故にこそ、譲るべからざるを譲つて、帝国はなほ最後の反省の機会を米国に与へたのであります。しかるにも拘はらず、彼は世界の現実に副(そ)はざる時代錯誤の架空的原則に固執して、遂に一片の誠意をも示さうとしなかつたのであります。帝国は生死存亡の関頭に立ちながら、なほ避くべからざる戦ひを避けんがために、最後まで必死の努力をしたのであります。しかるに帝国の国力を過少評価して、帝国の誠意を却つて日本に戦ふ力なく、戦ふ意志なしと誤解した米国は、些(いささ)かもその態度を改めぬばかりか、却つて武力的にも経済的にも、圧迫を強化して参つたのであります。

 こゝに到つて、帝国は、剣によりてその正義を守り、剣によつてアメリカの野望を粉砕して、アジアに清らかなまことの平和を創り出さうとする決心を致したのであります。この戦ひの意義はこれを消極的の面より言ふならば、真に止むを得ざるに出づる自衛の戦争であります。白刃首(かうべ)に臨んで、はじめて起つて剣を執つたのであります。ハリマン協定以後、ワシントン会議以来の重なる政治的重圧については言はずとするも、単に物資の一面のみを見ましても、封鎖下の日本は夙(つと)にあらゆる物資を得る道を封ぜられてゐるのであります。このまゝに推移するならば、帝国は当然ヂリ貧か窒息死に陥るほかはないのであります。
北部仏印進駐で日本軍がハイフォン港で差し押さえた米国主導の〝援蒋物資〟の一部。岩塩(上)とガソリン(下)(同)
 止むを得ず、日本は自身のために、自身の生きる道を切り拓かんと決したのであります。然るにアメリカは、最後の血路を開かんとする帝国の努力さへも、何処までも阻害しようといたしました。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、マレーを連ねて太平洋上に日本包囲の陣形を形成するのみか、遂に蘭印(註22)を唆(そその)かして、これを包囲の一鐶に引き入れまして、重慶政権下の支那と共に、完全に帝国の四囲を封じたのであります。しかも彼等の策謀の手は飽くことを知らず、仏印に伸び、タイ国に延びるに至りました。皇軍の南部仏印進駐は纔(わず)かにその危機を救つたのであります。タイ国もまた同断であります。このやうにして日本は、最後の生存権をすら拒否されんといたしました。情勢は正に三十数年前の日清戦争の前夜に髣髴たるものがあつたのであります。今次帝国の戦ひは三十数年前の日露の戦ひを再びする自衛の戦争であることを忘れてはなりません。

 しかしながら、これはまた積極の面よりいふならば、帝国の使命を完遂し、肇國の理想を実現して、祖宗の威霊に対(こた)へ奉らんとする聖戦であります。これはまた、アジア十億の民の信頼に応へる道でもあるのであります。アジアに国を成すすべての国家、すべての民族をして、各々その処を得しめ、日本は己れを虚(むなし)うしてこれを率ゐつゝアジア恒久の平和を築き、進んで世界の平和を確保せんとするのであります。この戦ひに帝国の揮ふ剣は、まことの意味の神武不殺、一殺多生の活人剣であらねばなりませぬ。

 帝国この度の戦ひは、アジア恒久の平和と光栄のために、千年の禍の根源を絶たんとするのであります。永く世界人類を毒して来た自由主義、個人主義、帝国主義の侵略の源泉(みなもと)を洗つて、かやうにして洗ひ清められたる清浄の大地の上に、揺ぎなき平和の礎(いしずえ)を置かんとするのであります。

 国民諸君、同胞諸君

 今正に時は到つたのであります。われらの祖国日本は今、蹶然立つて雄々しく戦ひを開始いたしたのであります。敢然起つて国難突破に勇躍いたしてゐるのであります。われら一億国民は、この日の為めにこそ生きて居つたのであります。その持てる物、その持てる力、その持てる生命(いのち)、一切を国に捧げて国に報い、国に殉ずるの時は今であります。この時であります。神州日本は不滅であります。皇国日本は天壌と共に栄ゆるのであります。悠久二千六百年の永き歴史において、戦ひに敗れたことは、未だ曾つて一度もないのであります。日本は絶対不敗の国であります。戦つて未だ捷(か)たざることなき国であります。勝利は常に御稜威(みいつ)(註23)の御旗のもとにあります。
161127
対米交渉でルーズベルト大統領と最後の会談を終えてホワイトハウスを出る野村吉三郎駐米大使(左)と来栖三郎特派大使=昭和16年11月27日(『昭和』講談社)
 一億国民、悉く、必勝の信念を微動だにさせてはなりません。戦はざるものに勝利なしであります。戦歿勇士の心を心として、吾等は戦つて戦つて戦ひ抜くのであります。勝つて勝つて、進むのであります。錦の御旗は南に、東に、北に、西に躍進し突進して、アジアの歴史を創るのであります。アジアを白人の手からアジア人自らの手に奪ひ回(かへ)すのであります。アジア人のアジアを創りあげるのであります。而してアジアに国を成すすべての国々と、すべての民族とをして、各々その処を得しむるのであります。かくて昭和のみ民われらは、「万里の波涛を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かん事を欲する」大御心に対へ奉ることが出来るのであります。

 何たる光栄、何たる矜持でありませう。日本国民にとつてこれ以上の生き甲斐は絶対にないのであります。宣戦の詔勅を奉戴したわれら国民の決心は

今日よりは顧みなくて大君の醜(しこ)の御(み)楯(たて)といで立つわれは(註24)

と同じ心であります。万葉の名もなき防人(さきもり)の歌つたこの歌は、爾来千年の間、われらの祖先が朝な夕な愛唱し続けて来たのであります。堂々と米英両国に対し宣戦の御詔勅の渙発せられたる今日こそ、一億国民の心の中にひとしくこの歌が甦つたことと確信いたします。八紘を掩ひて一宇(いへ)となす御稜威のもと、生くるも死するも、只これ大君のためであります。君国のためであります(※25)。この灼熱の愛国心ある限り、神州は絶対に不滅であります。我に正義の味方あり。我に世界無敵の陸軍あり、海軍あり。米英何んぞ惧(おそ)るゝに足らんやであります。勝利は常に御稜威の御旗のもとにあり。

天皇陛下万歳 帝国陸海軍万歳 大日本帝国万歳


註1 欧米による対アジア差別を解消し、植民地支配を排除して独立した各国によるアジア連合としての大東亜共栄圏構想。日本が指導的立場に立ち、昭和十八年十一月には東京で開かれた大東亜会議にシナ(中華民国)南京国民政府、満洲国、タイ王国、大東亜戦争によって独立したビルマ、独立が早まったフィリピン、さらに日本の支援で独立をめざす自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースも参加した。

註2 天皇のこと。

註3 昭和七年の満洲国建国、十二年からのシナ事変などで日本のシナ大陸への影響が拡大。対する米国はシナにおける自らの権益を確保するため、蒋介石政権(重慶国民政府)への軍事支援を実施。ABCD(アメリカ、英国=ブリテン、シナ、蘭=ダッチ)包囲網を形成し強力な対日経済封鎖(制裁)を行った。日本に協力的で蒋と対立する汪兆銘は十五年に南京国民政府を樹立(十八年に米英に宣戦布告し、対列強不平等の象徴だった租界、治外法権を撤廃した)。一方、蒋介石支援する最大の「援蒋ルート」を断つため日本軍は十五年、北部仏領インドシナに進駐。さらに日本は独、伊と三国同盟を結び、のちに枢軸へと拡大する。十六年春から日米国交改善に向け最終的な交渉が続けられ、同十月の東條内閣発足後、日本は従来の野村吉三郎駐日大使に加え、来栖三郎駐独大使を日米交渉担当として派遣し、異例の特命全権大使二人態勢で妥結をめざした。しかし、排日・差別思考のフランクリン・ルーズベルト大統領の下で交渉を担当したコーデル・ハル国務長官が十一月二十六日に提示した米側要求文書いわゆる「ハルノート」は、日本の主張、権益をことごとく否定、排斥する内容だった。ロシアの南進を食い止める半島・大陸での権益構築、欧米によるアジア差別の是正など日露戦争以来の日本の取り組みの否定するもので、さらに在米日本資産凍結、石油の対日全面禁輸など物量面の抑圧を払拭し、国家存立をめざすためだった。

註4 日露戦争の講和会議が米ポーツマスで開かれ、調印まじかの明治三十八(一九〇五)年八月三十一日、米鉄道王エドワード・ハリマンが来日し、駐日大使ロイド・グリスコムの仲介で桂太郎首相ら主な閣僚に面会。ロシアから日本に譲渡される見込みの南満洲鉄道の共同経営を持ちかけ、同十月十五日、戦争で財政疲弊の日本側は予備覚書を交換する。ところが特命全権として講和会議を終えた小村寿太郎外相が翌十六日に帰国してこの件を知ると、事実上の米資本による乗っ取りであることを各閣僚に説いて回り、予備段階だった覚書を破棄させた。米国はこの後、政府が前面に出て満洲鉄道権益獲得の野心を露骨にした。

註5 南北戦争によってシナ進出が遅れていた米国は、米西戦争(一八九八年)で獲得したフィリピンを足がかりに進出。すでに進出していた英、仏、独、伊、露、日の列強に対し翌九九年、ジョン・ヘイ国務長官がシナの主権尊重と港湾自由使用を求める通牒を出して牽制。この後も米国は特に日本のシナにおける権益拡大を抑えようとした。

註6 日露戦争の日本側戦費と戦死・戦病死者の概数。

註7 米国は南満洲鉄道の事実上の買収が頓挫(註4)すると今度は明治四十二年十一月に国務長官フィランダー・ノックスが、日本が保有する南満洲鉄道、当時はまだロシアが保有した東清(北満)鉄道について日、露、米、英、独、仏の六カ国共有とする「満洲鉄道中立化案」を提議。ほぼ同時に米国はハリマン(註4)とともに渤海湾岸・錦州から西部満洲を経由して黒竜江岸・愛輝をつなぐ錦愛鉄道敷設の借款協定をシナ(清)と結んだ。しかし中立化案は日露の反対と、英仏も日露を優先したため成功せず。錦愛鉄道もハリマンの死で立ち消えとなった。

註8 日清戦争で日本領となった台湾の対岸にある福建省は、軍事的に重要な地域だが、米国はかねて米海軍根拠地を計画するなど食指を伸ばし、ついには要港の三都澳に軍港とドックを建設するための借款をシナと進めていることが判明。辛亥革命で成立した中華民国に対し日本は大正四(一九一五)年に行った「二十一カ条要求」の一つとして、同省での港湾などの建設に外国資本が必要な際は予め日本と協議することを求めた。

註9 第一次第戦中に起きたロシア革命(一九一七年)で、赤軍に捕らわれたチェコ軍団の救出を名目に翌年、日、英、米、仏、伊など連合国(第一大戦)がシベリアに出兵。米軍が二〇年に撤兵したのに対し、日本軍は最後の二二年まで継続したため、米国などは領土的野心があると批判した。

註10 第一次大戦のパリ講和会議。大正八(一九一九)年一―九月に断続的に開かれた。日本は連合国の一員としてより、欧米の偏見・差別・抑圧が続くアジアの代表として、人種差別撤廃の明記を世界で初めて提案。国際連盟委員十五人のうち十一人が賛成、五人が反対という圧倒的賛成多数にもかかわらず、議長のウィルソン米大統領は「全会一致ではない」などとして採択しなかった。

註11 大正十年十一月から三カ月にわたる国際軍縮会議で日、米、英、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガル、シナの九カ国が参加。ウォレン・ハーディング米大統領が提唱したもので、第一次大戦戦勝国の軍拡抑制を名目に、日英同盟破棄や日本海軍力の制限などで、日本の台頭を阻んだとされる。海軍軍縮条約では、主力戦艦の保有比率が、英米の各五に対し日本は三に抑えられた。太平洋の離島に新たな軍事要塞の建設を禁止し、日本は委任統治となったパラオなど南洋群島だけなく千島列島や小笠原諸島にも本格軍事施設を造れなくなった。四カ国条約では太平洋に権益を持つ日、米、英、仏が、相互の領土・権益を尊重と非軍事要塞化を約定。これにより第三次まで続いた日英同盟は第四次へと更新されず失効した。さらに九カ国条約で、日欧より遅れている米国のシナ進出を図るため一八九九(明治三十二)年に国務長官ジョン・ヘイが行ったシナの「門戸開放、機会均等、領土保全(主権尊重)」を全参加国に再確認させた。これにより日本は第一次大戦で独から得た山東省の権益を縮小。このワシントン体制は、清から中華民国に代わったシナの領土を明確にしないまま「領土保全」を認めたため、中国共産党によるモンゴル、チベット、ウイグルなどへの侵害につながったとされる。

註12 日清戦争(明治二十七―二十八年)で勝利した日本は日清講和条約(下関条約)で、清の朝鮮に対する冊封撤廃(独立)と、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲などを得た。シナ分割の野心を持つ露、独、仏の三国が日本に主導権を握られると警戒し、遼東半島放棄を日本に勧告。英米は中立の立場を取ったため、日本は応ぜざるを得なかった。米国はこの四年後、門戸開放宣言を行いシナへの進出を加速した。

註13 「八紘」は天地のあらゆる方位のことで、世の中、世界の意。「宇」はいえ(家)の意。世界が一つの家族のように和み合うこと。

註14 「註1」参照。

註15 日本に協力的な汪兆銘の南京国民政府と対立する蒋介石の重慶国民政府。

註16 米国を指す。シナ大陸に対し、日本の影響拡大を抑えつつ、自らの権益を確保するため、米国は蒋介石への軍事支援を実施。ABCD(アメリカ、英国=ブリテン、シナ、蘭=ダッチ)包囲網を形成し強力な対日経済封鎖(制裁)を行った。

註17 豪亜地中海とも。東南アジアとオーストラリアの間の海域。

註18 「註3」参照。

註19 昭和14(一九三九)年九月、独のポーランド侵攻で第二次世界大戦の戦端が開かれた。米国による四カ国条約(註11)で日本との同盟関係が解消していた英国は、対日改善に傾きつつあった。しかしF・ルーズベルト大統領の下で排日・反日措置を強める米国は、直前の同七月、日米通商航海条約破棄を通告。翌八月、日本は米国のシナ権益に資するよう、シナ事変後に封鎖していた揚子(長)江下流の開放も提起して条約更新を求めたが米国は拒否。十五年一月に同条約は失効し、日米は無条約状態となる。すでにワシントン体制(註11)が崩壊して日米軍拡競争が続く同五月、米国は主力艦隊の拠点を太西洋からハワイに移し太平洋を挟んで日本圧迫を強めた。

註20 日露戦争後のポーツマス講和会議から、米国が自らのシナ権益確保と日本台頭抑止の行為を続けた三十年。

註21 東條英機内閣発足後の臨時議会(昭和十五年十一月十七日)施政方針演説で東條首相は①第三国が日本の企図するシナ事変完遂を妨害しないこと②日本を囲む諸国家が直接軍事行動はもちろん、経済封鎖という敵性行為を解除し経済の正常関係を回復する③欧州戦争が拡大して戦禍が東亜に及ぶことを極力防止する―を外交の三原則と述べた。

註22 蘭領東印度(オランダ領東インド)の略。現在のインドネシア。

註23 天皇が具え持つ清らかで徳のある威光。

註24 下野国、今奉部與曾布(いままつりべのよそふ)の作。防人として召された吾は今日より家族や故郷は差し置いて、大君=祖国をお守りする醜の御楯(武人が自らを卑下した表現)として出で立つのだ。

註25 大君=天皇のためというのは、すなわち天皇をいただく我が祖国、ふるさと、家族のため。


※『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より転載。