山本 みずき


 安保法制反対を叫ぶデモの動きが広まる中、ひときわ注目を集めている学生団体がある。自由と民主主義を標榜し、国会前で毎週金曜日に抗議活動を繰り広げている「SEALDs(シールズ、自由と民主主義のための学生緊急行動)」である。私とおおよそ年齢を同じくする現役大学生たちを中心に結成され、ラップ調のコールや、とても政治的主張をするようには見えない洒落た女子たちによる演説など、斬新な手法によって多くの人々を惹きつけている。彼らの発表によれば、今では1万人を超える国民を巻き込んだ活動へと拡大しているという。デモを眺める限り、SEALDsの主張は極めて簡潔だ。そう、彼らは安保法案を声高に「反対」する人々である。

 その一方で、SEALDsの抗議活動に触発され、安保法案に賛成する側からも街頭演説で反論する人や、ネット上で激しい誹謗中傷を書き込む人々の姿もしばしば目にする。しかし、SEALDsを含めた抗議活動やそれに対抗する誹謗中傷などを目にするにつれて、私は両者の言動に違和感を覚えることがある。両者ともに「戦争反対」という立場は同じであるはずなのに、なぜ賛成派と反対派の溝は次第に深まっていくのか。理性を忘れて互いに煽り合う、その姿はとても見るに耐えない。そこで私は、率直に彼らに疑問を投げかけることでより建設的な理論を構築したいと考え、本メディアiRONNAを通してSEALDsに対談を申し込んだのだが、結局多忙を理由に断られてしまった。

 iRONNAの母体は産経新聞であり、一般的には保守派のメディアと称される。彼らが真剣に自分たちの主張が正しいと思っているのであれば、この対談はSEALDsという組織の活動や、その主張の正当性を広く世に訴えることができる絶好のチャンスにもなり得たはずである。個人的には大変残念であったし、実は後日、Twitterを通して「取材依頼、イベント等の依頼等も是非是非ご連絡いただければと思います。DMかsealdsjpn@gmail.comまでよろしくお願いします」との(SEALDsの)投稿もあり、こちらの依頼をSEALDs側が断ってきたことは、他者の価値観を受け入れようとしない姿勢の表れにも思えてならなかった。

 こと安保法案に関しては、既に憲法学者や国際政治学者のみならず、多くの有識者が自らの見解や持論を述べ、真摯にこの問題に向き合っている。同様に、私と同世代の若者たちも、この国の未来を案じて、自ら意思を表明し、政治に参画している。こうした多くの人々の行動に私は敬意を表している。残念ながらSEALDsとの対談は実現しなかったが、世代を同じくする彼らに歩み寄る気持ちで、この場を借りて、彼らへの疑問点と私自身の考えを綴ろうと思う。
 
 安保法案は戦争を招くのか、それとも戦争を抑止するのか。これらは反対派と賛成派それぞれの主張の底流をなす議論である。国会議員を含めて反対派は安保法案を「戦争法案」と呼んでいる一方で、安倍首相はこれを「無責任なレッテル貼り」とした上で「あくまで日本人の命と平和な暮らしを守る為、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案」であることを訴えた。さらには「不戦の誓い」を戦後日本が守ってきた崇高な理念であるとして、日本人の誰もが戦争を望んではいないことを強く訴えた。しかし、日本人が戦争を望んではいないというのはさておき、「不戦の誓い」というこの表現は必ずしも適切ではなく、安保法制には日本が戦争に巻き込まれる可能性を高める側面もある。今年5月14日の安倍総理大臣記者会見をみても明らかな通り、安保法案には、抑止力を高めることで他国から攻撃される可能性を低める狙いがある。目的は攻撃される可能性を低めることではあるが、そもそも抑止力とは相手国より優位な立場を不可欠とする、互いの不安を前提に成り立つ理論であり、それによって相手がこちらに攻撃する可能性が皆無であることを保証するものではない。だからと言って、かつての軍国主義を想起し、日本がまた自ら戦争をする国になるといった認識はナンセンスである。「自ら戦争する」のと「自衛する」のとでは意味合いが大きく異なるからだ。つまり現政権の狙いは、「自ら戦争を招く」ことではなく、自国あるいは他国が戦争に巻き込まれた状況での、自国民の命を救済にある。

 私がSEALDsに違和感を覚えるのは、第一に国民の命を守ることを主張しながら、同時に自衛隊員のリスクが高まることを批判している点である。例えば、6月12日の抗議行動でマイクを握った男子学生は次のように述べた。

 「先日ある新聞のインタビューで「自衛隊が危険な任務につくことを政府は安全だといいますが、どう思われますか」と尋ねられました。そして僕はそんなことに答えなければいけないのか(と思った)。危険な任務を「安全にします」というのはゴミ矛盾でしょ!」

 まず私が問いたいのは、国民の命を守るためには首相や政治家はどのような選択を迫られるのか、ということである。SEALDsと同様に首相にとっても国民の命を守ることは尊い理念である。これは、先述の記者会見でも安倍首相自身が述べていることであり異論はないだろう。しかし、それに反して世論のなかには「首相は自衛隊員の命を蔑ろにしていいのか」といった声が散見される。これらの声を聞くと、私はいつも次のことを思う。自衛隊員も国民であり、命を蔑ろにしていいはずは無いが、国民の命を守るためには、一方で国民に命を危険にさらすよう迫る瞬間があることを、多くの人は忘れてしまっているのではないか。戦後の日本では「人権・命」と「軍事力」が対立関係に置かれ、この観念が深く根を下ろしている。それはある局面では正しいが、他方でそうではない局面もあるという考え方が必要なのではないだろうか。なぜなら、軍事力が人の命を奪うこともあれば、人の命を救うこともできるからである。国民の命を救うためにどうしても軍事力が不可欠となる局面があり、そして国民の命を守るために、構成員の一部に命を投げ出してもらうことが必要となる瞬間がある。自衛隊員はその一部に当てはまる存在であり、これを命じるのが政治家や指導者の役目である。決して容易い役目ではない。

 先の沖縄戦においてを例にとって説明しよう。舞台は日米最大規模の戦闘とも言われる沖縄戦。ここで貴方が、仮に日本軍の兵士として米軍と闘っていることを想像してほしい。沖縄戦と言えば、日本軍が泣きわめく赤ん坊を射殺していたことが今尚語り継がれている。そして貴方は司令官として、日本軍が窮地に立たされた戦局において、逃げ惑う住民たちを濠に連れ、米軍から隠れて逃げていた。すると不意に、そのなかにいた赤ん坊が泣き出してしまった。米軍は刻一刻とこちらに迫り、濠のなかは息も詰まるほど緊迫した状況である。しかし赤ん坊が泣き止む気配は一向にない。このまま赤ん坊が泣きわめき、米軍に見つかれば住民を含めて全滅する可能性が高い。一方で貴方が赤ん坊を殺めることで99%の命を救うことができるかもしれない。貴方はどちらの決断を下すだろうか。もちろんこれに正解はない。しかしながら、政治家や指導者とは、99%の命を救うために1%の命を殺める決断と勇気を必要とする立場である。

 マックス・ウェーバーは政治における倫理を「心情倫理」と「責任倫理」に分けて説明した。心情倫理的に行為する者は、ひたすら行為そのものに固有な価値を認め、結果を度外視して、心情の純粋さをもって行為を正当化する。しかし、他者の命を預かる責任ある者は、心情の純真さだけでは「善い目的」を達成できないときがある。そしてウェーバは言う。「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」(『職業としての政治』岩波文庫)、と。
 

 そもそも自衛隊とは日本の安全保障を担う存在であり、国民の命を守ることを職務としている。もちろん自衛隊の命を蔑ろにすることは絶対にあってはならないが、一方で自衛することが職務である以上、自分の命を賭する覚悟を持たずして自衛隊員となることは、それもあってはならない。「戦争するような国に住みたくない」と言う気持ちは分かるが、それは皆に共通した想いであり、しかも安保法案の本質をついていない。現実には「国民の命を守ることのできない国に住みたいか、住みたくないか」ではないだろうか。国家が内に向けた「暴力」である警察と、外に向けた「暴力」である軍隊に二重三重に守られておきながら「暴力はいけない」と騒ぐのはあまりにもナンセンスに思える。

 加えて言えば、軍事力が無ければ戦争が起こらないというのは幻想に過ぎず、かつての朝鮮戦争では韓国軍の隙を狙って北朝鮮による電光石火の大攻勢がなされた。北朝鮮の狙いは、米国の参戦前に奇襲することで朝鮮半島を制圧できるという目論見であり、軍事力の圧倒的な差によって韓国軍はひたすら敗走を続けたのだった。安保法案には「戦争を招く」のではなく、翻って「戦争を抑止する」、つまり戦争を止められる側面もあり、これが一般的には国際政治の論理とされている。

 それから外務性と内務性についても触れておきたい。集団的自衛権の問題に限らず、18歳選挙権や死刑制度などあらゆる問題が議論されるとき、しばしば世界的な潮流が注視される。「他国がやっているから日本にも取り入れるべきだ」というこの手の議論である。しかし世界の潮流に合わせて政策を決定するのは、対象となる問題が外務か内務によって異なる視点を要するものだと私は考えている。

 例えば選挙権や成人年齢に関する議論は、その国の価値観に基づいてなされるべきことである。西洋を模倣するといっても、日本と西洋とでは辿ってきた歴史が明らかに異なっているため、結果的に生まれた政策をそのまま模倣することが必ずしも良い結果を生むとは限らない。つまり内務においては、「先進国がやっている」という大義名分に踊らされるのではなく、自国の価値観に基づいた検討が重要となってくる。一方で外務では他国との関係が重視される。国際政治においては他国の存在が自国にとって無関係ではないため、国家間で足並みを揃えることが重要な意味合いを帯びてくる。従って外務政治において「他国がやっているから日本にも取り入れる」というのは理にかなった議論である。

 なぜ私がこの話を持ち出したかと言うと、18歳選挙権の成立を主張していた人が「先進国では当たり前のことだから」と言って自らの考えを正当化しておきながら、一方では今回の集団的自衛権の賛否を巡って先進国では当前のことでありながら否定している言説がしばしば散見されたからだ。おそらくは外務と内務に分けて考えるとより良い議論が生まれるのではないかと思った次第である。

 私はいま、安保法案の賛否をめぐる国内世論に対して強度のイデオロギーを感じている。それはつまり、ある特定の価値観が自分のなかで支配的になるあまり、他の価値観が排他的になってしまう現象である。SEALDsはまさにその例に当てはまると思うのだ。デモやTwitterでは「憲法を守れ」「安倍は辞めろ」の一辺倒、自分たちに都合の良い学者を取り込むばかりで多様性を重視していない。さらに命令口調で安倍首相をはじめ自民党や賛成派を扇動しているが、本当に自分たちの意見を聞いて欲しいと望むならば命令口調の言葉は使うべきではないし、それはいくら若者であっても、いや若者であるからこそ当然の礼節だと私は思っている。こうした言動の端々から、彼らは本当に安保法案の反対を望んでいるのか、あるいは自己満足の世界に浸っているのか、私は分からなくなるのであった。

 ハロルド・ニコルソンが指摘する通り、民主主義とは本来、国民の耐えて怠ることなき関心を必要とする高度な政治体制である。安保法案という大きな変化に接するにあたり、一般民衆の心が混乱することは必然だろうと思う。だからこそ、現政権には更なる説明の努力を重ねていただきたい。また一方で、我々国民は感情的になることなく、この国がより良い政策を選択できるよう、正しいことは認め、間違っていることには的確にメスを入れることのできる主権者として、その務めを果たそうではないか。