ひろさちや(宗教評論家)


人間は、宗教を持つから動物と区別される


 人間に宗教は必要なのでしょうか?

 わたしには、「人間に宗教は必要か」という問い自体が、ナンセンスに思えます。

 というのは、人間は宗教を持つから動物と区別されるとわたしは思っているからです。

 宗教を持つから人間になると、わたしは思います。「動物プラス宗教イコール人間」であり、逆に言えば、「人間マイナス宗教イコール動物」と言うことです。

 動物とは、エコノミック・アニマルということもできましょう。宗教を持たない人間は、「損か得か」の経済原理でしか動きません。他人が困ろうが、他国の人が苦しんでいようが、自分たちだけが繁栄すればいいのだという生き方―それがエコノミック・アニマルです。そういう動物に、日本人は成り下がっていると言えないでしょうか。

 わたしたちは一所懸命に働くことが美徳と思って、やみくもに働きます。しかし、「働く」ということの意味は、自分の幸せのため、自分の家族の幸せのため、周りのみんなの幸せのためにあります。

 ところが、日本人は、働くことの原点を忘れて、いつしか「企業の奴隷」や「企業の飼い犬」になってしまったのだと思います。会社に飼い慣らされた家畜同然の「社畜」ということばさえあります。

 「売り上げがあがればいい。儲かれば何をやってもいい。自分の会社さえよければいい。他がどうなろうと構わない」

 そういう考え方が、日本の社会では支配的になっています。諸悪の根源は、そこに集約されるんじゃないでしょうか。

 昔、雪印食品が、輸入牛肉を国産と偽って、狂牛病対策事業の対象肉として業界団体に買い取らせていました。また、大手の食品会社や総合商社、あるいは全農など一流企業といわれるところが、鶏肉や豚肉の産地を偽装するなど、消費者を欺く行為を平然と行っていました。これらは、組織ぐるみの犯罪行為です。

 わたしは不思議でならないのですが、自分の会社がそういうごまかしをしていることを、社員は知っていたはずです。ところが、どこの会社からも、内部告発はありませんでした。外務省の不祥事にしても、職員は知っていたはずなのに、暴露されるまでは黙っていました。彼らは、国民や消費者に迷惑をかけていることに対して、何の罪悪感も感じなかったのでしょうか。

 自分の勤めている会社が、消費者をだますようなことをしていれば、「そんなことをしてはいけない」と止めるべきだし、「そんなことをするのであれば、この会社は辞めます」というのが普通でしょう。それが、まっとうな人間です、

 でも、いまの社会では、逆に「そんなことを言う人間がおかしい」と思われてしまいます。それほどまでに、労働者が企業の飼い犬になっているのです。そして、平気で、弱いものいじめをしたり、法律を破るようなことをしています。

 これでは、まるでヤクザの集団と同じではないでしょうか。ヤクザの集団に属していれば、親分がいかに理不尽なことを言おうと、「それは、ご無理ごもっとも」で反対することはできません。

 人間として幸せになるためには、悪いことをする企業の味方をしない、そういう会社には属さない。わが社だけが大事で、他はどうなってもいいというヤクザの集団のような意識を捨てることです。

 わたしたちは、企業のために生きているのではありません。自分と家族の幸せのために働いているのであって、企業の奴隷や飼い犬ではない。1人1人が、そういう自覚を持つことが大事です。そのための規範となるものが、宗教であり道徳なのです。

競争原理とは、あらゆる人が幸せになってはならないという考え


 日本は、「企業型」の資本主義社会です。国家をあげて、企業型の資本主義を応援しています。学校教育も、企業型の資本主義の教育に歪められています。

 教育の本来の目的は、子どもを幸せにすることです。人間として幸せな生き方を教えることにあります。

 ところがいまの学校教育は、企業人を作るための場になっています。企業が買ってくれる人材、企業向きの人間を作ることが教育の根幹になっています。企業に入れば、企業の価値観にどっぷり浸ってしまう人間が求められます。企業の価値観にどっぷり浸る人間とは、企業の奴隷になるということです。

 そして、日本の社会の価値観は、競争原理です。企業は競争に勝てる人間を欲しがっています。そのため、競争に耐えられない人間は、排除しようとします。知的障害児だとかハンディキャップのある子どもは、排除されてしまいます。

 わたしたちは、「競争は当たり前じゃないか。競争しなければやっていけないんだ。競争がなくなれば、日本の社会はつぶれてしまう」と、競争によって成り立つ社会を作ってきました。ここに、さまざまな問題の根源があると思います。

 競争原理とは、「競争に勝った者が幸せになれる。競争に負けた者は、幸せになる権利はない」という考えです。しかしそれは、

 「競争に勝った者が不幸になって、競争に負けた人間が幸せになれるのはおかしい」

 という考えでもあります。勝つ者がいれば当然に負ける者がいます。だから、半分の人間しか幸せになれないことになります。つまり「みんなが幸せになれるはずがない」というのが競争原理ですね。

 この日本社会は、神仏からみると、とてもおかしな社会と映るのではないかと思います。

 仏さまの願いは、

 ――あらゆる人が幸せになってほしい。すべてのものが幸せになってほしい

 ということです。「すべて」ですから、人間ばかりではありません。。動物も植物も含めて、「生きとし生けるもの」すべてです。

 ところが日本の社会は、「あらゆる人が、幸せになってはならない」という競争原理によって成り立っている社会です。そういう社会は、おかしな社会だと思いませんか。

 日本の民話に「ウサギとカメ」の話がありますが、日本人は諦めずに最後まで努力をしたカメを、立派だと思っています。しかし、わたしはこれは、弱肉強食の原理だと思っています。

 インド人に、ウサギとカメの話をしたところ、

 「ウサギはノープロブレム、カメに問題がある、カメは寝ているウサギの横を通り越したとき、どうして起こしてやらなかったのか」

 と言いました。「それは競走だから仕方がない」とわたしが言いますと、そのインド人は、

 「競走だからといって、見捨てていいわけがない。ひょっとしたら病気で苦しんでいたのかもしれないじゃないか。怠けて昼寝しているのか、病気で苦しんでいるのか、起こしてみてはじめてわかることなんだ。自分の勝つことばかり考えているやつがおまえは好きなのか」

 と言いました。

 わたしたちは、まさにアニマルになっているから、カメは立派だ偉いと思うわけです。しかし、ほんとうにカメは立派なのか、もしかしたらおかしいんじゃないかと、そこに気がつくのが宗教の役目だと思います。

ひろ・さちや 宗教評論家。1936年、大阪府生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。同大学院人文科学研究科印度哲学専攻博士課程修了。65年から85年まで、気象大学校教授を務める。膨大で難解な仏教思想を、逆説やユーモアを駆使してやさしく説く語り口は、年齢・性別を超えて好評を博している。著書に、『釈迦とイエス』(新潮選書)、『「狂い」のすすめ』(集英社新書)、『奴隷の時間 自由な時間』(朝日新書)、『阿呆のすすめ』(青春出版社)、『お葬式をどうするか』(PHP新書)、『がんばらない、がんばらない』『捨てちゃえ、捨てちゃえ』(以上、PHP文庫)など多数。