『朝日新聞』は、慰安婦問題で吉田清治という詐欺師の証言を全面的に信用し、ありもしなかった日本軍による組織的な「強制連行」が存在したかのような記事を書きつづけ、日本の名誉を汚し続けてきた。日本国内の読者だけでなく、海外の多くの人々も『朝日新聞』で「事実」として掲載されたことを根拠として、日本軍による組織的な慰安婦の「強制連行」が存在したと思い込まされてきた。多くの人々を欺いた張本人は吉田清治だが、その出鱈目な主張を権威づけたのが『朝日新聞』だった。秦郁彦氏の調査によって、吉田清治の証言の信憑性が乏しいことが明らかになりながらも、長年にわたって『朝日新聞』は記事を訂正しようともしなかった。

 「社会の木鐸」とも称される新聞に対する国民の信用は高い。それだけに、その報道内容、主張の是非は厳しく吟味される必要があるといってよい。

 さて、今般、安倍政権が整備を進めようとしているいわゆる「集団的自衛権」の一部を限定的に容認しようとする法案に関して、『朝日新聞』は、極めて批判的だ。

 その社説の一部を抜粋してみよう。

 首相はきのうの集中審議で、集団的自衛権の行使を容認しても「(他国の)戦争に巻き込まれることは絶対にないと断言したい」と述べた。

 何を根拠に「絶対に」と言い切れるのか。政権が正しいと言えば正しい、安全だと言えば安全だ、合憲だと言えば合憲だ、そういうことなのか。

 これで国民の納得がえられると思っているなら、甘すぎる。


 権力が恣意的に憲法を操ることは許されない。政権は根本から考えを改めねばならない。


 日本で唯一、武力行使できる組織である自衛隊をどう動かすかの議論である。軍事抑制、国際協調を基本にしてきた戦後日本の歩みを大きく変える議論でもある。

 何よりも大事なのは、幅広い国民の信頼と合意にほかならない。ところが現状では、それが決定的に欠けている。

 憂うべき政治の惨状と言うほかない。国民の不信はなぜ、ここまで広がってしまったのか。


 憲法は権力を縛るもの、という立憲主義を軽んずる振る舞いであり、憲法を中心とする法的安定性を一方的に掘り崩す暴挙でもある。

 その結果、いま危機に立たされているのは政治と国民の信頼関係だ。法案が成立すれば、自衛隊が海外で武力行使できるようになる。信頼のない政権の「総合的判断」を、国民がどこまで信じられるのか、根源的な危惧を感じざるを得ない。


 『朝日新聞』の主張は、安倍政権が進めようとしている政策は、憲法違反であり、自衛隊を海外で武力行使をさせることになるという点にある。そしてそれは、「戦後日本の歩みを大きく変える議論」なのだという。

 確かに、日本では集団的自衛権の行使が禁じられてきた。権利を持ちながらも、行使できないという状況が続いてきた。そのために、PKO活動の際の「駆けつけ警護」など、誰がどうみても、許容されるはずの行為が、「集団的自衛権の行使」に該当するとの解釈で、禁止されてきた。

 だが、本稿で検討したいのは、集団的自衛権の議論そのものではない。これだけ大きな反対の声をあげている『朝日新聞』の過去の記事を検討することによって、今回の記事の書き方が極端で大袈裟なものではないかを考察してみたいのだ。

 平成3(1991)年、日本ではPKO法案が成立する、しないで、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 その当時、『朝日新聞』がどのような主張をしていたのか、御存知だろうか。

 結論からいえば、『朝日新聞』は、自衛隊をPKO活動に参加させることに反対していた。自衛隊以外の非軍事のPKO活動だけに専念しろと主張していたのだ。

 自衛隊のPKF派遣の法制化を急ぐよりも、非軍事のPKOの領域で、国連の諸活動への協力体制を強化すべきではないか。その意味で、この法案は、抜本的に練り直すのが望ましい。


 『朝日新聞』が問題視したのは、自衛隊の「武器の使用」が、日本国憲法第9条で禁じている「武力行使」に該当するのではないかという疑念からだった。

 政府は個々の自衛隊員の「武器の使用」と「武力行使」とは異なるものだと説明したが、『朝日新聞』は、それは「言葉じりでいいくるめようとする」「ご都合主義」だと批判したのだ。

 この法案の審議を通じて、法案自体の問題点が浮き彫りになった。たとえば、憲法9条が禁じる「武力行使」と自然権的に認められる自衛のための「武器の使用」との関係である。両者は異なるものだ、とする政府の統一見解は、軍事活動のために自衛隊を海外に送ることを禁じてきたわが国の戦後史の重みを乗り越えるにしては、あまりにご都合主義に過ぎる。日本の針路にかかわる政策変更を、言葉じりで言いくるめようとしているところに無理がありはしないか。


 こうした批判が強まったために、国会では、武器の使用に関する議論に終始し、本来、国際社会で日本の自衛隊が如何なる貢献をしていくべきかの議論については、殆どなされなかった。

 とにかく、自衛隊を海外に派遣させることは危険だというのが、終始一貫した『朝日新聞』の論理だった。

 その結果、自衛隊の武器使用に関しては、「正当防衛」しか認められないということになった。自分自身が攻撃されそうになった時にのみ、反撃する権利が認められるというのだ。これでは目の前のNGOの人間が狙われたときに、自衛隊は救出することが出来ない。だが、自分自身以外の他者の生命を守ることは憲法が禁ずる「武力行使」にあたる恐れがあるとの理屈から、自衛隊は正当防衛以外は全く認められなかった。

平成4年9月17日、国連主導で総選挙を行うカンボジアに向け、自衛隊初のPKO海外派遣部隊が広島・呉港を出発した
 しかし、現実は過酷だった。

 自衛隊を派遣せずに、非武装の民間人だけを派遣すればよいとの主張を嘲笑うかのように、現地の情勢は急転する。

 カンボジアの民主化のために、選挙要員として訪れていた民間人の中田厚仁氏が何者かによって襲撃され、文民警察官として派遣されていた高田晴行氏も殺害された。

 PKOの部隊が派遣される場所は、渋谷やロンドンといった安全な場所ではない。確かに、停戦状態になってはいるものの、治安がよいとは言い切れない。

 だからこそ、各国は武装した軍隊を派遣しているのだ。

 このとき、自衛隊は、日本の文民を守ることが出来なかった。能力がなかったのではない。誠意がなかったのでもない。そうした警護したり、守ったりすることが「憲法違反」だとされてしまい、守ることが出来なかったのだ。

 このとき、自衛隊はどうしたのか。

 余りに残酷な話だが、事実から記しておく。

 先に述べたように、自衛隊に認められていた武器使用は、正当防衛だけだった。従って、自分が攻撃されなければ、相手を攻撃することは出来ない。

 だが、ゲリラや殺人犯は、自衛隊ではなく文民を襲撃する可能性がある。現に、二人の日本人が殺害された。

 そこで考案されたのが「人間の盾」という作戦だった。

 何者かが民間人を襲ってきた際に、自衛隊が身を挺して、自らの身を盾として、民間人を守るというのだ。この場合、自分自身が攻撃されているのだから、反撃することは、「正当防衛」の範疇に属する。

 本来であれば、自らの身を危険に曝すことなく、任務を遂行できるはずの自衛隊員をわざわざ生命の危険に曝してまで守る「憲法九条」「平和主義」とは一体何なのか。

 『朝日新聞』をはじめ、多くのリベラルは、生命尊重、平和主義を語る。だが、現実には、身を危険に曝しながら、国民の命を守り、他国の民主化のために貢献している人々が存在するのだ。

 PKO法案が成立してから、20年以上の歳月が流れた。日本のPKO活動は感謝されることはあっても恨まれることはない。立派に国際貢献をしている。

 憲法違反でもなかったし、自衛隊でなければ出来ない仕事を成し遂げている。

 あのとき、PKO法案で、違憲だと大騒ぎしていた同じ人たちが、今回は集団的自衛権の行使は憲法違反だと大騒ぎしている。

 少しは頭を冷やして、静かに反省してはどうか。