赤木智弘(フリーライター)


 大阪府高槻市で女子中学生の遺体が遺棄されているのが発見された事件は、行動を共にしていたと思われていた男子中学生も、同府柏原市で遺体で発見されるという悲しい結末となった。

 今回の事件は、そもそも中学生の男女が家を出て深夜に出歩いていたことを発端にしている。報道などによると、女子中学生はこれまでも友人たちとテントを張ったり駅前のベンチで夜を過ごすなどの外泊行為が常態化していたと言われている。学校の側も事態を把握はしていたが、特別な指導などはなかったという。

 容疑者の男も逮捕され、今後事件の概要がハッキリして行くにつれ、徐々に「親や学校は何をしていたのか!」「子供が夜に外出なんてとんでもない!」という被害者や関係者批判の声が大きくなってきている。メディアではしたり顔の識者が「もっと家庭や学校が子供たちを守らなければいけない」などと話すのだろう。

 しかし、そうした場当たり的な対応が、むしろ子供たちを危険に晒すのではないか。今回の事件を受けて、同じような状況にいる子供たちの安全安心を守れとばかりに、深夜の見回りなどによって、子供たちが無理矢理、家に連れ返されるようなことがあるのではないかと、僕は心配している。

 まず、今の子供たちを取り巻く現状を簡単に説明しよう。

 大前提として、殺人による被害者数は昭和30年ごろと比べれば大幅に減っている。戦後の統計を見ると、昭和30年の殺人事件被害者数は2119人だが、平成24年では383人となっている。人口10万人あたりの数値で見ても、昭和30年頃は2人以上が殺されていたが、ここ最近は0.4人以下になっている。

 この傾向は子供(13歳未満)でも同じで、子供が殺人事件の被害者になる件数も、一貫して右肩下がりである。したがって、マスメディアでささやかれるような「私たちの子供の頃はこんな事件はなかった、最近の子供はいつも危険に晒されている」などというような事実は存在しない。

中1女子殺害・遺棄事件で、大阪府警高槻署に集まった大勢の報道陣=2015年8月21日午後7時57分、大阪府高槻市(共同)
 また、今回の事件の容疑者は、被害にあった中学生男女とは面識がなかったと思われる。こうした事件が起きると必ずと言っていいほど「知らない人が子供を殺す。親の近くにいれば子供は安全なのだ」と主張する人が現れるのだが、平成25年の殺人における被害者と被疑者の関係性を見るに、53.5%が親族によって行われている。一方で面識無しなのは10.3%と、ほぼ1割である。また平成25年に殺人被害となった子供(13歳未満)は68人。うち、32人が両親等の虐待によって殺されている。

 つまり、子供を一番殺しているのは両親であり「親元にいれば子供は安全」などということは、全く言えないのである。

 さて。少し想像力を働かせてみて欲しいのだが、人が人を殺す理由とはなんだろうか?

 少し考えてみれば「相手に強い恨みを持つから」という平凡な答えを導くことができるはずだ。そしてそれは子供を取り巻く環境においても同じである。子供に対して強い憎しみを抱きやすい人間は誰か。それは当然、いつも子供のそばにいる「親」である。だから、子供が親に殺される。

 もちろん、いきなり殺すという段階などに飛ぶことはほとんどない。たいていの親は一時的に子供を嫌ったとしても、そのストレスを食事やショッピングで解消したり、自分のパートナーや周囲の信頼できる大人に相談して、子供のことを好きになったり、もしくは嫌いなままでも社会的役割として子供を育てていくことを選ぶのである。

 じゃあ、一方で子供はどうか。今回の被害者の女子生徒も家庭内でうまく行っていなかったのだろう、小さな家出を繰り返して、親友たちと語らうなど、親や先生たちには話せないことを相談したりしていた。ただし、親友たちは決して適切なアドバイザーではなかった。問題は十分に解消されないまま、彼女は家出を繰り返し、やがて今回の不運に出会ってしまった。

 こうした時に必要だったのは、決して彼女を家に帰すことではなかったし、学校が彼女に対して聞き取り調査をすることでもなかった。必要だったのは、親でもなく、学校でもない、信頼できる第三者としての大人であった。親や学校におもねるのではなく、必要とあれば親や学校に対峙して子供の側に立つことができる、そんな大人がいれば、彼女たちはもっと安全に家族との距離を保つことができたのではないかと思う。

 しかし、こうした事件が起きてしまうと、たいていは「子供を親元や学校に閉じ込めろ!」という世論ばかりが大きく響く。その結果、家や学校と適切な距離を保つことのできない子供は、家出のような過剰な対応をしないと、逃げることができなくなってしまう。

 近年では国や自治体でも、学校にスクールカウンセラーを配置するなど、子供の悩みを早いうちに聞き取り、解決しようと動いている。しかし、それはそれでやはり行政や学校寄りの大人にしか思えないという感は強いし、また制度として配置された大人を、子供が信頼してくれるかどうかといえば、保証などできるはずもない。

 「信頼できる大人」は結局、子供たち自身が探すしかない。

 そのためには、子供自身が別の大人と数多く接触することで、自分自身にとっての「信頼できる大人」を選別していくしかない。そうした反復をするには「子供を親元や学校に閉じ込めておけば安全安心」という風潮は邪魔である。子供を閉じ込めれば閉じ込めるほど、子供は限られた大人としか接触できなくなってしまう。その中に適切な大人がいなければ、子供は大人に恨みを貯めるしか無くなってしまう。それでは元の木阿弥だ。

 そうならないためにも、大人たちは子供たちのために、子供たちが親や学校を含めたより多くの大人と会話できる環境を生み出していくしかないのである。

 そうした中で、当然子供たちが信頼に値しない大人と出会うこともあるだろう、時には犯罪の被害に合うこともあるかもしれない。しかし、そうして多くの大人と接触する中で、子供自身が経験を積み、他人を見る目を養う事こそが、最終的に子供が納得した形で安全安心な応対を、自分の周囲に保つことができるようになれば、誰かの生み出したものではない、子供たち自身にとっての「自立した安全安心」という最良の状況に行き着くことができるのではないだろうか。

 他人が考えたお仕着せの安全安心では、本質的な意味で子供を守ることなどできないと、僕は考えている。

参考資料