田岡一雄(三代目山口組組長)

《徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』より》

広島代理戦争


 昭和三十八年四月、広島で火を噴いたいわゆる第二次広島抗争事件は、血で血を洗う殺戮(さつりく)戦であった。

 すなわち、事件の起きた四月に一人、五月に二人、六月にも二人、九月には三人と、わずか半年の間で八人の男たちが命を奪われ、十四回の喧嘩(でいり)と十四人の負傷者とを数えている。やくざ抗争史のなかでも、これほど凄惨で複雑な背景をもつものはなかった。

 抗争の原因は、広島の博徒・山村組(山村辰雄組長)と打越会(打越信夫会長)との勢力争いであるが、これは単なるやくざの勢力争いではなかった。敵味方、互いにデマや思惑が乱れ飛び、戦闘員は疑心暗鬼となって寝返ったり寝返られたりして、この事件をいっそう複雑怪奇なものとしたのである。

 世間ではこの抗争事件をいつか「広島代理戦争」とよびはじめた。山村組をあと押しする神戸本多会と、打越会を支援する山口組という二大勢力が、遠隔操作によって両者を戦わせた代理戦争だというのである。が、そんな意志は断じてなかった。

 そこで、事件の直接関係者である打越会会長・打越信夫に、第二次広島抗争事件を語らせた結果を総合すると……。

 打越信夫の略歴。

 打越信夫は大正九年一月五日、広島に生まれ、尋常高等小学校を経て陸軍に入隊。昭和十五年、満州北部・興安東省の斐徳甲斐部隊で約二年半、国境警備につく。その後、病気で戦時中に除隊し、同時に東京・高田馬場にあった大日本機械化義勇団に入団。そこで装甲車やトラックの運転をおぼえたが、このときの経験が後年、タクシー会社の経営に乗りだすことに役立っている。

 戦後、広島へ帰った打越信夫は昭和二十一年、トラック二台を持って運送会社を始めるかたわら古物商を営む。このころから打越信夫は極道を指向し、広島市西部地区の中心地であった西広島駅前の闇市を根城にしてしだいに勢力をのばし、博徒・岡敏夫が岡組を結成すると同時に岡敏夫と舎弟の盃を交わし、岡組に参画している。

 以来、打越信夫はめきめきと頭角を現わし「岡組の打越組」と呼ばれるほど力をつけてきたが、昭和二十五年、広島東の猿猴橋で起こった殺人事件で“広島に打越あり”とその名を高めた。

 この事件は岡敏夫の舎弟・葛原一二三が岡組に反逆し、同時に打越信夫の若衆ともいざこざを起こしたことに始まる。そこで打越の若衆三名は、海の記念日の白昼、猿猴橋の下で葛原一二三を待ち伏せ、貸しボート屋の休憩所へつれ込んで射殺したのである。この事件で打越の名は広島やくざを震撼(しんかん)させた。

 打越信夫はまた社交家で政治家的手腕の持ち主でもあった。昭和二十五年、広島カープ球団が発足すると同時に「鯉城後援会」を組織し、当時、カープの看板選手であった小鶴、金山、三村などと親交をもつ。それらの線で寿原正一代議士(自民)や運輸業界の顔役・関谷勝利代議士(自民)らとも近づき、昭和二十七年暮から昭和二十九年にかけて広島市の中央部に地盤を築き、紙屋町にタクシー会社を経営。たちまち既存のタクシー会社を吸収して、市内第三位の台数を保有するなど昇龍の勢いにあった。

 第二次広島抗争事件は、この後に起こっている。


 事件にはいるまえに、戦後の広島やくざの系譜を語らねばなるまい。

終戦直後、広島では岡敏夫のひきいる岡組が地下帝国を築きつつあった。岡敏夫の舎弟には打越信夫、山本薫、葛原一二三、大西某らがおり、また直系若衆には網野光三郎、原田昭三、永田重義、進藤敏明、服部武、岩瀬忠雄、中村幹雄ら第二次広島抗争事件で世間を震撼させた錚々(そうそう)たる顔ぶれが控えていた。舎弟というのは兄弟分のことであり、若衆は子分のことである。

 一方、呉市には山村辰雄のひきいる山村組が結成されていた。映画「仁義なき戦い」シリーズの金子信男の役が山村辰雄である。山村組は若衆頭の佐々木哲雄をはじめとして樋上実、美能幸三らがその屋台骨を支え、虎視眈々(こしたんたん)と勢力拡大のチャンスをうかがっていた。

 呉にはそのほか初代・小原薫を組長とする小原組(二代目組長は実弟の小原光男)も堅陣を布き、山村組とたがいに覇を競っていた。

打越信夫とやくざの系譜


 当時、打越信夫は、岡組の重鎮として岡組舎弟・山本薫と兄弟分の盃を交わす一方、山村組の若衆頭・佐々木哲雄、小原組組長・小原薫とも縁組をもち“三兄弟”として親交をあたため、地下帝国での地盤を一歩一歩固めつつあった。

 さらにこれらの兄弟分の周囲には、打越信夫から舎弟の盃を受けた“七人衆”がタカのような鋭い睨(にら)みをきかせていた。すなわち、第二次広島抗争事件で圧倒的な戦闘力と、血で血を洗う非情さをみせた網野光三郎、原田昭三、服部武、美能幸三、永田重義、進藤敏明、小原光男の七人の若手実力者たちである。

 打越信夫の証言によれば、彼ら“七人衆”と舎弟の盃を交わしたのは、だいたい昭和二十五年から二十六年にかけての時期で、日本中が朝鮮戦争の特需に湧(わ)きたっていたころだとしている。

 読者には、やくざの系譜というものがいささか煩雑(はんざつ)であろうが、こうした人脈をまず頭に入れておいてもらわないと、この抗争事件の本質がつかめないと思うので、もうすこしご辛抱願おう。

 昭和三十六年十一月五日、打越信夫はさらに神戸山口組の実力者である安原政雄と兄弟分の盃を交わした。場所は神戸の料亭「寿楼」である。

 山口組からは舎弟頭・松本一美、岡精義、安原武雄、松本国松、藤村唯夫、三木好美、若衆頭・地道行雄、山本健一、梶原清晴、山本広、中山美一らが出席し、打越信夫側からは取り持ちの岡敏夫をはじめ、岡組、山村組、海生組、横奥組、打越組などが列席し、ここに打越信夫は山口組という大きな後ろ楯をもったのである。

 明けて昭和三十七年一月、博多事件(第二部・迅雷篇「夜桜銀次」以下参照)が起きると、打越組も山口組支援のため二月七日、博多へ応援部隊を派遣し、山口組傘下の旗幟(きし)を鮮明にした。

 その年の五月、広島やくざは大きく揺れ動いた。

 五月十一日、それまで広島に磐石(ばんじゃく)の睨みをきかせていた岡組組長・岡敏夫が引退したのである。

 高血圧、糖尿病という健康上の理由であった。

 岡組は解散し、同時に組員たちはこの日から呉の山村組に預けられ、山村辰雄の配下にくだった。

 岡組の実質的な跡目は、山村辰雄によって引き継がれたのである。これによって、山村組は従来の構成員七十人から一挙に二百二十人の組員を擁(よう)する大組織となり、いまや山村組が広島を掌握した形となった。

 山村辰雄の得意はその絶頂に達した。

 旧岡組の持っていた広島の縄張りも、組員も、そっくりそのまま自分の懐(ふところ)へ転がり込んできたのである。

〈これでわしゃ、山陽一の大親分じゃ〉

 山村辰雄はおのれの得意をあちこちに吹聴(ふいちょう)して歩き、それは、いささか子供じみてもいた。

 広島を制圧する者こそ山陽のゴッドファーザーであった。山村辰雄は喜々として旧岡組の幹部・服部武を若衆頭に任命して組の統一を計り、山陽道に号令する第一歩を大きく踏みだしたのである。

 ――この事態のなかで一人おもしろくないのは、自他ともに岡組の後継者と目されていた打越信夫であった。

 かつては、岡組とともに広島を二分していた打越組である。「岡の跡目は打越」と周囲からもずいぶん取り沙汰(ざた)され、自分もその気で貢献してきたつもりであった。

 それが一挙に引っくり返された。トンビに油揚げをさらわれた格好である。「跡目は打越」という評価が高かっただけに失った面目も大きかった。面目を失うということが、この渡世ではどれだけ恥であるか、渡世に生きた者でなければわかるまい。打越信夫は重い衝撃を味わわねばならなかった。

 「打越をわしの舎弟(兄弟分)にしてつかあさいだと?若衆(子分)にならしちゃってもええが、舎弟にいうてできるかい」

 得意満面の山村辰雄のそんな鼻息さえ露骨に打越信夫の耳に伝わってきて、打越に血の涙をしぼらせた。