猪野健治(作家、評論家)

《徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』より》

 田岡一雄という人物をどう捉えるか。いまだに単なるヤクザの親分と見ている人が多いのではないか。私はそういう見方はちょっと違うのではないかと思う。確かに山口組三代目組長には違いないが、その先見性はカミソリのように鋭く、行動力は旺盛で、また活動範囲は一般人よりはるかに広い。

 やや古い話になるが、たとえば民間放送の連合体「民放連」が主催する「十大歌手による民放祭」に対し「歌手の人選に問題がある」として、美空ひばり、三橋美智也、田端義夫ら売れっ子歌手を多数出演させる企画をぶつけて、「十人」を「二十人」にして神戸芸能社との共催に持ち込んだ手腕は今でも語り草になっている。

 また、神戸港の船内荷役業者を「港洞会」に結集し、全港振(全国港湾荷役振興協会)に発展させ、港湾近代化に尽くした業績は高く評価されている。さらにはまだプロレスが海のものとも山のものともわからない草創期にいち早く日本プロレス協会を設立したこと、右翼の田中清玄や立教大学総長・松下正寿、作家・平林たい子らをかついでの「麻薬追放国土浄化同盟」の結成など通常の親分とは異色の社会的意義の高い活動を展開している。

 田岡三代目が港湾の近代化に貢献したというと、反発する人がいるかもしれないが、これは事実である。

 田岡三代目自身がこう書いている。引用しよう。

 〈全港振設立の趣旨を一口でいうならば、港湾で働く労働者の団結と生活向上である〉

 〈荷役の仕事を発注する大元は、いうまでもなく船会社(荷主)である。
 船会社は全額の一〇%のアタマをハネて、元請(もとうけ)(倉庫業、運輸業者など)へ仕事をだす。
 元請けはその仕事を第一次下請業者に請負わせるのだが、その際も四〇%のアタマをハネて回す。
 さらに第一次下請業者は一〇%のピンハネをして、その仕事を第二次下請業者にやらせる。
 こうして船会社から順次経路を経て第二次下請業者へ仕事が回ってくるまでに、中間でじつに六〇%もの賃金が搾取(さくしゅ)されている状態であった。
 いちばん割りを食うのは、第二次下請業者の下で働く男たちである。
 彼らは苛酷(かこく)なしわ寄せをうけ、不当に安い労賃で言語に絶する重労働を強いられている。
 港の繁栄を底辺でささえている彼らこそ、いちばん大切にしなければならぬ主戦力なのに、港湾にはこうした不合理な縦の組織が厳然と根をおろしていた。
 これでは下積みの労働者たちは、いつまでたってもうだつがあがらない。
 彼らの生活を見聞(みきき)きするようになってから、わたしはなんとかその打開の方法をと考えはじめていた〉

神戸港
 〈神戸港湾労働公共職業安定所のあった弁天浜界隈から川崎町へかけて、道路の両側は彼らの溜(たま)り場であった〉

 〈賭博、傷害は日常茶飯事で、汗と焼酎の異臭が充満し、無法地帯を現出していた。ドヤ代さえなく、道路で寝ている男たちで足の踏み場もないくらいだった〉

 田岡三代目はこの惨状を見てどう動いたのか。当時すでに全港振副会長兼神戸支部長だった田岡は建設大臣・河野一郎(当時)を顧問に迎えたのを機に労働省へ一人で何度も足を運び、川崎造船所の近くに日本で最初の港湾労働者のための港湾寮を建設させ、県と神戸市に陳情して神戸に、尼崎に次いで労災病院を開かせた。その実現への道筋は大変ハードなものだったという。港湾寮は生田区内に昭和30年8月に建設されたが、工費6400万円、鉄筋4階建てで一泊80円で泊まれる常雇労働者の宿泊所だ。おかげで路上生活者は畳の上で眠れることになった。

 ほかにも田岡三代目の水面下の努力で、神戸みなと寮、共同住宅、第二みなと寮、港湾労働者福祉センターなどが次々に建設された。

 神戸、横浜港には全港湾労組が活動していたが、もっぱら組合員の賃上げなど待遇改善に主力を置き、港の近代化などの根本的な問題には消極的な姿勢だった。港の労働者の大半は日雇いである。常雇労働者中心の全港湾は苛酷な労働を強いられる日雇い労働者の上に胡坐をかいているという不満が非組合員の間には充満していた。実際に待遇の上で小さくない格差があった。田岡三代目はその不条理をつぶしにかかる。神港労連の結成がそれである。

 私は当時、神港労連を取材している。

 開口一番、書記長は「神港労連は田岡親分の号令でできたんですよ」と言った。私は仰天した。まさか親分が労働組合を作るなんて信じられなかったのだ。私があっけにとられているのを見て書記長は「田岡さんはほかの親分とはタイプが違うんですよ。目先の利益など眼中に無く、あのころは港のことばかり考えていた。何しろスケールが大きい。ケタ違いなんです。自分でこれがいいと判断したらすぐに実行する」とつづけた。

 私が田岡三代目は「ヤクザの範疇では捉えきれない人物だ」と気づいたのはそのときだった。

 神港労連が結成されると、全港湾に不満を持つ労働者がたちまち1000人以上集まった。総評系の全港湾はやがて少数派となり、神港労連は全港振と一体化する。

 田岡三代目の最大の功績は港湾の近代化だが、具体的に言えば港湾荷役の一本化に成功したことである。

 そのきっかけになったのは、昭和24年春、神戸港の中小荷役会社15業者を集めて「港洞会」を結成したことだ。

 朝鮮戦争の特需景気が終わって、貨物量が減少した昭和31年初め、米軍物資を一本化して日通に請け負わせようという動きがあった。そうなると請負い業者の間で、過当競争を引き起こし、労賃は低下して、特に第二次下請業者は仕事を失うことになる。そこで横浜を皮切りに反対運動が起こった。元請業者も不況のあおりで、安定した労力を求めていた。

 三井、三菱、住友の三大倉庫や港の長老たちも安定度の高い作業能力を確保するため、全港振の発足を歓迎した。

 31年5月、神戸港を震撼させる事件が起こった。三井倉庫の第一次下請・上栄運輸(白井幸吉社長)の現場監督・花元義一の部下が砂糖の荷抜きを働いたのである。これを知った元請の三井倉庫は、花元の責任を厳しく追及した。「きちんと決着がつかん限り、お前のところへはもう仕事はやらぬ」といわれ、荷抜きを働いた部下は粛清された。事件は山口組の暴力事件としてかなり派手に報道されたが、港湾組織の深部については触れられなかった。これを機に立場の弱い第二次下請け業者間には団結して、一次下請に昇格しようという機運が高まるのである。その先頭に立ったのが田岡一雄で、一次昇格が実現するのだ。当時の田岡三代目は港の不条理と真剣に戦っていた。特に一次、二次の縦関係と不当な搾取を排除したことは港の近代化に大いに貢献した。それは田岡の功績でもある。

 大マスコミは神戸芸能と甲陽運輸をあたかも山口組の資金源のごとく報じている。ここではっきりしておきたいのは、山口組と神戸芸能、甲陽運輸との関係である。

 神戸芸能と甲陽運輸は山口組とは何の関係も無い。確かに神戸芸能は発足当時は、山口組の興行部だったが、昭和32年4月1日以降は資本金100万円の株式会社神戸芸能として生まれ変わった。甲陽運輸も同様である。

 山口組は独立したヤクザ団体であり、企業に投資したり、会社を経営しているわけではない。正確に言えば山口組綱領を信奉し、任侠道を貫くことを目指すものたちが任意に結集した日本最大の任侠組織である。ただし日本国政府は山口組を暴対法(暴力団による不当な行為の防止等に関する法律施行令)によって「指定暴力団」に指定、組員の経済活動、たとえば証券市場への参入や、銀行口座の開設を禁止、ホテルの利用、マンションの購入も規制している。彼らと同窓会で一緒に飲んだことを理由に、公共工事から締め出された建設業者もいる。

 田岡夫人のフミ子さんは、何が何でも山口組をつぶそうという警察の姿勢について、やんわりとこう反撃している。

 〈主人が社長をしている神戸芸能社のほうも、会社の契約先へ、
 「神戸芸能の荷(タレント)は扱わぬほうが好ましい」
 とか、また、タレントさんに、
 「神戸芸能とかかわりをもたぬほうが好ましい」
 などといって、会社は警察の圧力で商売ができないようにされたのです。 警察に非協力な人たちは、あとから税務署のお見舞いを受けるのです。
 神戸芸能社にはなんら行政指導はなく、主人は営業妨害で告訴すべく弁護士さんと相談いたしておりましたが、タレントさんも契約主も、警察の後難をおそれて証人になることをおそれ、やむなく会社は以来、開店休業の状態であります〉

 それだけではなく〈いきつけの飲食店、料亭にも圧力がかかったほど〉だという。そんなところまで圧力をかけて何が得られるというのか。犯罪防止とは何の関係も無い。

 〈こうして正業をとりあげられたわたしたちは、何を食して生活すればよろしいのでしょうか。
 つねに、わたしたちは菊のご紋章あってこそ生きていける、といった古い考えを抱いております。山菱の代紋を強調するものでもなく、所詮(しょせん)またそれにかなうものでもないということは、あえて論を要しないことであります〉ともフミ子さんは訴えている。「山口組三代目 田岡一雄自伝」は皮肉に言えば日本の警察の陰湿な体質を見事に暴露した一冊とも受け取れる。

二〇一五年五月
(※徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』 解説 より転載)