日本最大の暴力団「山口組」のトップが狙撃される前代未聞の事件が37年前、京都のナイトクラブで起きた。事件の首謀者は、松田組系「大日本正義団」2代目会長だった吉田芳幸さん(72)。武闘派とまで呼ばれた親分だったが、後にキリスト教に回心し、神の教えを説く伝道者となった人物だ。裕福な家庭に生まれながらも、父親が経営していた会社の倒産で貧しい幼少期を送り、「日本一のヤクザになる」と極道の世界へ。山口組との熾烈(しれつ)な暴力団抗争を繰り広げた末に逮捕され、刑務所の中でさえ山口組関係者から常に命を狙われた。日本中を震え上がらせた抗争事件の裏に何があったのか。産経新聞の取材に対し、吉田さんが重い口を開いた。

裕福な生活から極貧へ


 「タンスの中にお金がたくさんあって、それを盗んでは友達にあげていた」

 昭和18年1月、大阪府布施市(現東大阪市)でも屈指の資産家の家に生まれた。父親は糸工場の経営を番頭に任せ、ずっと家を留守にした放蕩三昧(ほうとうざんまい)。工場の経営はみるみるうちに傾き、小学3年のとき、倒産した。

 「税務署の人が家にやってきて、全部持っていかれた。残ったのは火鉢だけ。冬も兄弟で薄い蚊帳(かや)をかぶって寒さをしのいでいた」

 待っていたのは極貧の生活だった。1玉のうどんにしょうゆをかけ、それを家族で分け合って食べていたほど。3つ年が離れた兄の芳弘氏が新聞配達を始めると、自分も新聞配達や牛乳配達をしながら家計を助けた。一方、「不良とよくけんかをしたが、弱い者はいじめたりしない。正義のヒーローだった」とも振り返る。

 そんなとき、芳弘氏が「不良をやめてヤクザになる」と言い出した。自分が進学した工業高校のラグビー部の先輩にも暴力団関係者がいた。

 「ヤクザは美人を伴っていて、ワニ皮の財布の中に札束を入れていた」

闇取引で巨万の富


 腕っぷしには自信があった。仲間の一人が松田組の組員とけんかして、大阪・西成の組事務所に連れ込まれたと聞くや否や、仲間を助けたい一心で組事務所に乗り込んだ。

 「ええ根性しとんのう」。たまたま居合わせた松田組系宮本組の親分に根性を買われ、「うちに来い」と〝スカウト〟され決心。高校を中退し、組事務所での下積み生活が始まった。

 「おれは日本一のヤクザになってやる。どうせやるならトップだ」

 そう心に誓い、夜も明けきらぬうちから大阪の中央卸売市場の青果店でアルバイトし、組事務所での「お務め」が終われば博打(ばくち)場で下足番をして稼いだ。市場で芳弘氏がけんかの末に刺されれば、“犯人”を捕まえて「ぼこぼこにいわせた」。

 23歳の若さで家を建て、24歳になると「がま」と呼ばれる入れ墨を背中に入れた。「体を汚すということは親と縁を切るということ。親分は自分の親であり、一生ヤクザをするという気持ちの表れ」だった。

 海外にも渡航し、拳銃や覚醒剤の闇取引で巨万の富を得た。「罪悪感はあるが、金を持っている方がヤクザは上。金もうけしたろと…」。極道の世界では何よりも金がものを言った。香港で高級時計の偽物を1つ3500円で仕入れると、日本では10万円で売れたという。

「仇(かたき)は山口組3代目」


 40年前の昭和50年7月26日、後に「大阪戦争」と呼ばれる暴力団抗争の火ぶたが切られた。賭場でのトラブルから、大阪府豊中市の喫茶店「ジュテーム」で、山口組直系佐々木組傘下の組員3人を、松田組傘下の溝口組組員らが射殺したのだ。

山口組トップ狙撃事件について語る牧師の吉田芳幸さん。当時は武闘派と呼ばれ、山口組組員に射殺された兄の復讐のため、命を捨てる覚悟で山口組との“全面戦争”に踏み切ったという=大阪府東大阪市
 報復合戦は熾烈を極めた。51年10月、大阪・日本橋の商店街で松田組系の大日本正義団の初代会長を務めていた芳弘氏が山口組系組員に射殺される。35歳だった。跡目は吉田さんが継ぎ、2代目会長に就いた。

 「仇は組織の頂点。山口組3代目、田岡一雄組長。よし、全面戦争だ。このままでは絶対終わらせない」

 吉田さんは復讐(ふくしゅう)を誓い、配下の組員らは芳弘氏の遺骨を懐中に忍ばせた。

 ただ、山口組は当時で1万人超の組織。自分の配下の組員は約70人だった。「人数ではとても勝てないが、兄貴は日本一の組長だった…」。命を捨てる覚悟を固めた。

 芳弘氏の死から2年近くの歳月を経たある日。京都・京阪三条駅前のナイトクラブ「ベラミ」に、田岡組長が立ち寄っているとの情報を得た。配下の組員と近くのマンションの一室を借りて網を張り、毎晩、作戦会議を繰り返した。

 田岡組長のボディーガードは20~30人。それに対抗しようと、射撃が得意な組員を川に連れては水面に向かって撃たせた。組員らに客を装ってベラミに日参させたという。

ベラミ事件の真相


 「来ました!」

 ついにその日が訪れる。53年7月11日、蒸し暑い夜だった。

 店内に潜入していた鳴海清組員=当時(26)=から一報が入ると、吉田さんは「10分間待て」とだけ伝え、配下の幹部2人を車で向かわせた。

 しかし、車はベラミに向かう途中でパンク。2人が約30分遅れて到着すると、ちょうど鳴海組員が店内から出てきたところだった。

 「どないした! 殺(や)ったんか」。幹部が声を張り上げると、鳴海組員は「取った。手応えはあった」と話した。鳴海組員を車に乗せるまで、山口組の追っ手は来なかった。

 銃弾は確かに田岡組長の首を貫通したが、奇跡的に一命を取り留めた。テレビニュースを見て復讐が失敗に終わったことを知った鳴海組員はその場で泣き崩れたという。

 「あの2人が間に合っていたら、完全に取っていた(殺していた)だろう」。吉田さんは今でもそう思う。

「1万人超組織」からの逃避


 山口組の報復は執拗(しつよう)で残忍だったとされ、「捜索能力は警察よりも確実」と評されることもあった。にもかかわらず、逃亡先に選んだのは、山口組のおひざ元、神戸市だった。「一人でも多く殺して、死んでやるという思いだった」

 鳴海組員はサングラスや帽子で変装し、神戸の夜を出歩いた。だが、大胆とも思える行動が影響したのか、鳴海組員はその年の9月17日、六甲山中(兵庫県)で腐乱死体で発見される。遺体には激しい暴行の痕があった。遺体の背中に残った入れ墨をもとに身元が特定された。

 「自分の命をほって(捨てて)くれた。残念だと思うが、仕方がない」。吉田さんは静かに語る。この事件は未解決のままとなっている。

 吉田さんは、警察と山口組関係者の追っ手から逃れるように隠れ家を岡山に移したが、兄弟分の組員に連絡をとったことで足がつき、ベラミ事件から3カ月後、大阪府警に殺人未遂容疑で逮捕された。「まだ戦う気だった。悔しかった」

 警察は総力を挙げ、報復抗争にかかわった山口組の主要幹部ら282人を摘発し、傘下の7組織を解散させた。大阪戦争は53年11月、山口組が一方的に「抗争終結」を宣言し、終わりを迎えた。

 吉田さんは懲役5年の実刑判決を受け、札幌刑務所に収監された。

 北海道なら山口組の影響力が及ばないとみられたからだ。しかし、収監先が札幌刑務所という情報はすぐに広がり、山口組系の組員は札幌で次々と事件を起こし、約30人が札幌刑務所に送り込まれてきた。

 「はじめから腹をくくっていたから、いつ殺されてもいいが、黙って殺されはしないぞ、と思っていた」

 吉田さんは「五舎」と呼ばれる独居房から一歩も外に出ることが許されない生活を強いられた。

キリスト教への回心


 吉田さんは出所後、韓国へ渡った。事件前に知り合ったクリスチャンの韓国人女性に会うためだった。

 女性は吉田さんの子を産み、育てていた。「刑務所を出てきたときには娘は幼稚園に上がっていた。妊娠していたとは知らなかった」。その後、吉田さんの人生は大きく変化する。

 帰国後、結婚。「神さんは弱い者が頼るものや」と、クリスチャンの妻に暴力を振るったこともあった。かつては数十億円の現金を動かしていたのに、何をやってもうまくいかず、数百円にも事欠くありさまだった。

 だが、「不思議なことに、妻が神に祈ると難問は次々に解決した」。病に伏せていた親類が一気に快方に向かうなど、数々の奇跡を目の当たりにした。「彼女は神様の声が聞こえる」と次第に考えるようになった。

 そして「平穏な暮らしをしたい。夫をクリスチャンに」という妻の願い通り、40代半ばで極道の世界から足を洗った。数年後には自ら洗礼を受けた。新約聖書に出てくる悪党の「バラバ」に自分の姿を重ね合わせた。バラバは死刑が決まっていたが、悪の限りを尽くしたバラバに変わってイエスが罪を受けたとされたからだ。あらゆる悪に手を染めた自らを悔い改めた。

 「私の場合、イエス様を信じたら、みんなも私を信じてくれるようになり、人生が変わった」

 吉田さんは今、キリスト教の牧師、信徒代表の長老として、東大阪市の「ベタニヤチャーチ」をはじめ、世界各国で伝道を続けている。

 大阪戦争から40年がたち、暴力団を取り巻く社会情勢は大きく変わった。

 吉田さんは「ヤクザのときは自分の力や金がすべてだった」とつぶやき、自戒の念を込めてこう続けた。

 「時代は変わった。あのままヤクザを続けていたら、今ごろまた刑務所の中か、もう死んでいたかもしれない」