光田由里(美術評論家)

《徳間書店『AMERICA 1955 林忠彦写真集』より》

ただ一度のアメリカ

 1955 年のアメリカ。第二次大戦で疲弊したヨーロッパをよそに、戦場とならなかったアメリカは、まさにゴールデン・エイジと呼ぶべき繁栄を謳歌していた。それまでヨーロッパの伝統には遠く及ばないと、自他ともに低く評価されていたアメリカ文化が、独自の輝きを放って世界に伝播しヘゲモニーを握り始めるのがこの時代である。

 一方で、日本は敗戦後10 年が経過してようやく人々の生活が安定し始めてきたものの、当時1ドル360 円の固定相場で、海外渡航は大幅に制限されていた。当然ながら敗戦国意識が強く残っていたこの時期に、写真家・林忠彦(1918-1990)は戦勝国アメリカに飛んだ。ニコンS2と大口径レンズを与えられ、林が日航機で太洋を横断して、ロサンゼルス、ニューヨーク、ハワイをかけめぐり撮影した写真があったことは、長く忘れられてきた。
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 林忠彦は敗戦まもない時代に、東京の人々の生々しい傷としたたかなエネルギーを撮った写真家として、記憶され歴史に残されている。彼のただ一度の渡米は見過ごされがちだったが、当時、アメリカを撮りえた写真家は数少なく、写真雑誌を中心に次々発表されたこれらの写真は話題を呼んでいた。

 その仕事が戦後70 年を経て、新たに編まれ、ここに1 冊にまとまった写真集として出版される。わたしたちは林のレンズがとらえたアメリカを、初めてまとめて眺めることができるわけだ。

 この『AMERICA 1955』を開く時、わたしたちは彼の代表作『カストリ時代』(※)と見比べないわけにはいかない。まずは10年の時をはさんで戦勝国と戦敗国の光と影の対照を見るだろうか。

 あるいは短い異国の旅のスナップと、運命共同体の一員ならではの練られた視線の、状況の違いを指摘するむきもあるだろう。逆に、アメリカでもあくまで市井の人たちに興味を抱き人間性に対等に共感しようとした彼の、どこを撮っても変わらぬ持ち味を知るという発見もある。

 現在から見返せば、70 年の時の経過は確実に「戦後」を遠くに置き、ここに写る人たちのほとんども写した作家ももはやいない。遠い時をこうして何度でも甦らせるのが写真の使命でもある。こうしたことをすべて含めて、この本は写真家・林忠彦の仕事を改めて見なおす機会になることだろう。

カストリ時代

 林のカメラは第二次大戦敗戦まもない東京の、焼野原に生きる人々を活写して時代の肖像を作り上げた。

 自身も北京からの引揚者だった林は、焼け跡となった東京にひしめく、帰還兵、孤児、家を失った人たち、食べ物や仕事をもとめる人たちの群れにレンズを向けた。ようやく帰国しても故郷の徳山(現在の周南市)に落ち着くことができず、あてもないまま上京した林は、1946 年の群衆のなかの一員だった。非常事態の、ダイナミズムをもった人間ドラマに林は共感せずにはいなかっただろう。借り物のカメラを抱えて、すすけた衣服で空腹をかかえた人たちを追って上野、新橋、銀座、四谷と東京を駆け巡り、彼らが発する不思議にポジティブなエネルギーを、林は見事に撮り押さえていったのだった。これらをまとめてのちに出版した写真集に、『カストリ時代』という名がつけられたのは、いかにも彼にふさわしかった。

 カストリとは、物資欠乏中の敗戦直後、ちまたで飲まれた質の悪い、カストリ焼酎から由来する言葉だという。「粕取り」でつくった焼酎には問題ないそうだが、ヤミ酒を毎晩飲み続けた林に言わせると「まったく鼻をつまんで飲まなきゃ飲めないような、なんでできたかわからないような、ただアルコール度が強いだけの酒だった」らしい。こうした粗悪な焼酎は、3 合飲めばつぶれる、ということから、まず3 号ほどで廃刊になってばかりいる当時の大衆雑誌を指すようにもなった、という定説がある。

 当時の俗流雑誌が総称して「カストリ雑誌」と呼ばれたのは、質の悪い紙にセンセーショナルな言葉を掲げた雑誌がいくつも発刊されてはすぐに廃刊になり、また別の雑誌が次々登場するという、敗戦直後の空前の出版ブームが背景だった。物資欠乏中ではあっても、戦時中に読み物に飢えていた人たちの欲望が堰を切ってこれらを求めた。林が撮り進めた市井の人たちの焼け跡生活は、こうした雑誌を飾って人々に共有されたのである。カストリ酒をあおりつつ、酒場を事務所代わりにして編集者らと連絡を取り、カストリ雑誌に次々写真を提供していったエネルギッシュな林忠彦。まさにカストリ時代を体現した写真家だった。

 土門拳を中心に展開した「リアリズム写真」は有名だが、戦災者たちの敗戦風俗を撮るという共通点において、林忠彦のほうが3年ほど時代を先んじている。林の敗戦後の初動は早かった。しかも彼の写真の魅力は、わかり易く強調された、一種のドラマ性にある。その魅力のあり方は、林の「カストリ」と土門の「リアリズム」の違いでもあるだろう。時に仰角を使って子どもを背負う母親と焼け跡背景にモニュメント性を加え、あるいはともに笑いながら犬と遊ぶ少年たちのポーズを撮って、1 カットのなかに見どころを作り上げる。読者たちと写される人たちを、同じ地平の上で彼のカメラはつなごうとする。林の持前のサービス精神が、強靭な写真的造形力をともなって、幅広い人たちに強い訴求力を発揮する写真を生み出した。林はおそらく意識的に、彼の写真を人間ドラマとなるよう磨いていった。1 枚の写真のなかにストーリーを読み込めるようしつらえた彼の写真は、映画のスティルのようである。

 林忠彦の浩瀚な伝記を書いた岡井耀毅は彼の手法を「林独特の手法となる環境セッティング写真」(『評伝 林忠彦』)と呼んで、「その人物の個性を周囲の環境の中にとらえる手法で、状況に応じて適宜注文をつけて一種の“ 演出” の下に撮り収めるのである」と説明した。これは林が有名な織田作之助、太宰治の傑作ポートレートを酒場で撮って、文士たちの肖像シリーズというライフワークを始めた1947 ~ 48 年頃のスタイルを指した説明であるが、少なくとも「アメリカ」以前の林の写真全般にあてはまる方法だといえるだろう。その人自身のリアルな状況のなかで人物を撮るのは、グラフ雑誌の取材方法でもある。ストーリーを受け取りやすく状況に託し、シャープな造形のなかに人をすばやくとらえる林の腕前は、抜きんでていた。

アメリカで狙ったもの

 さて、戦後10 年で人気写真家となった林忠彦は、いよいよミス・ユニバース日本代表選考の東京大会の撮影会に加わった。参加した11 人の撮った写真が審査され、ミス日本の世界大会出場を取材する特派員が選ばれるのだ。林は審査会で圧倒的多数票を獲得して選出されたという。メーカーからカメラとレンズの支給を受けて、ミス日本とともにカリフォルニア、ロングビーチに渡ったのは1955年の7月のことだった。カストリの写真家が戦勝国・アメリカに飛んだのである。

 帰国後に雑誌によせた「滞米写真」を見ると、林はやはり、人間を撮る写真家なのだとわかる。1955 年、ゴールデン・エイジのアメリカ人たちのくつろいだ素顔にせまろうと、写真家が身を乗り出しているのがわかる。

 日本は1952 年までアメリカ軍(名目上は連合国軍)の占領下にあった。US ARMY のGI たちは東京のちまたに溢れていたのである。林のカメラは占領軍の軍服を着た人たちの、街での姿を写してもいた。勤務から一歩離れた彼らの、私人としての顔を林はねらっていたように見える。それから10 年近くがたってついに占領が解かれたのち、林は幸運にもアメリカの地を踏んで、異国に送り込まれた軍人ではなく、ふつうに暮らす、アメリカの市井の人たちの素顔にせまろうと努めたのだった。

 巨大な都市、すべてにおいて日本よりはるかに近代化されてみえるニューヨークの街を、慣れない様子で歩き始める林忠彦。「このなかからヒューマニスチックなものを拾いだすのには相当期間滞在しなくては、とつても撮れるものではないと痛感した」(林忠彦「アメリカ撮影日記」『サンケイカメラ』1955 年11 月号・原文ママ)とため息をつきながら、林は街にもぐりこもうとする。ボヘミアンの街、グリニッジ・ビレッジに惹きつけられ、友人をみつけて酒を飲みに通う。あるいは週末のコニーアイランドのにぎわいに驚きながら、夢中でシャッターを切ったのも、にわか雨に驚いたひとたちがふと無防備に見えたからではなかっただろうか。すべりこめる街のふところのようなところを彼は求めていた。

 日本の敗戦風俗で名を上げた林が、アメリカ市民たちの人間臭い日常を撮ろうと走ったこの同じ年、ニューヨーク近代美術館では、有名な写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」展が開催されていた。

 林が到着したときにはすでに会期は終了していたから彼がそれを知っていなくとも不思議はないが、翌年の1956 年、東京・日本橋髙島屋を巡回会場にして大々的に開催されたときは、話題くらいは聞いたはずである。

 「ザ・ファミリー・オブ・マン」展は、ニューヨーク近代美術館の写真部門責任者、エドワード・スタイケン(1879-1973)がキュレーションを行った、有名な展覧会である。世界中の人たちの誕生、愛、争い、死などの生の営みを500 点あまりの写真で総合的に見せる壮大な企画で、当初68 か国から約300 人の写真家の作品を集めた。建築家・丹下健三の協力の下、大小のパネルに仕立てた写真を空間全体を使ったインスタレーションに仕立てたのは、1930 年代から各地博覧会で行われた写真壁画の展示を発展させたものといえる。世界各地、広い時代スパンで人間ドラマを網羅的に編集し、個々の写真家はほぼ匿名の扱いだった。雑誌を主な発表媒体に仕事をしていた林忠彦にとっては、写真を展示すること自体も、同展の方法や写真の扱いも、まるで異質に思えたかもしれない。

 日本に巡回したときは、幾人かの日本人写真家の作品も加えて展示されたものの、林は関与しなかった。しかしながら同展のテーマ「人間家族」は、林がアメリカで行おうとしたことと、意外に近いのではないだろうか。かつての敵国に日常を生きる人たちがいることを実感しようとし、彼は『カストリ時代』でそそいだ被写体への共感を異国でも奮い起こそうとしたのだった。

 対照点としての『AMERICA 1955』は、こうしたことに気づかせてくれる。林忠彦のもう一つの重要作品といえるだろう。


※1980 年、朝日ソノラマ発行。敗戦後まもない日本のスナップを集めた、林の代表作。

みつだ・ゆり 美術評論家。西宮市生まれ、京都大学文学部卒業。近現代美術史および写真史を専門とする。渋谷区立松濤美術館学芸員をへてDIC 川村記念美術館学芸課長。著書に『Words and Things: Jiro Takamatsu and Japanese Art 1961-72』(DaiwaPress)、『高松次郎 言葉ともの─日本の現代美術1961-72』(水声社)、『写真、芸術との界面に 写真史 一九一〇年代─七〇年代』(青弓社、日本写真協会学芸賞)ほか。主な展覧会カタログに『The New World to Come Experiments inJapanese Art and Photography 1968-1979』(Museum of Fine Arts, Houston,Yale University Press)、『A New Avant Garde Tokyo 1955-1970』(ニューヨーク近代美術館)、『野島康三 作品と資料』(美術館連絡協議会優秀カタログ賞)、『安井仲治写真集』(共同通信社刊、倫雅美術奨励賞)ほか多数。