加地伸行(立命館大フェロー)

 いつだったか、もう忘れてしまったが、日本代表として出場した女子マラソン選手が入賞後のインタビューでこう言っていた。「自分で自分を褒めたい」と。

 なるほど。利己主義全盛の今日、まことにずばりとよく言うよ。あんたの旅費から合宿費、強化訓練に使われた費用などなど、大半は国費ではないか。もちろん国民のそれこそ血税ではないか。

 とすれば、まずは祖国の日本に対して感謝のことばが最初にあるべきである。第一、日の丸ゼッケンを付けている。誰のお蔭で、そして誰のために走っているのか。

 祖国のことより自分のこと、これが現況である。それがことばにしぜんと出てきている。

 もっとひどいのは国立大学の教員や学生ども。彼らの中で、国営されている大学を通じて国家に感謝している者が何人いるのであろうか。ほとんどの者は、感謝どころか、逆に不満を洩らしている。

 そういう中で感心したのは、山中伸弥・京大教授。同氏はノーベル賞受賞時のインタビューにおいて、国家の名を背負っていることと感謝とをきちんと述べていた。人物である。

 一応の人であるならば、自分の立場とは、社会的にどういうものであるかということを考えた上での発言でなくてはならないのに、それができていない人が多い。今やテレビ名物の一つとなってきている謝罪会見でそれがよく分る。

 例えば、こう言う。自分側の失態であるのに、「皆さまに御心配をおかけしまして……」と。

 何を言う。だれもあんたのことやあんたの組織について心配などしていない。そうではなくて、怒っているのだぞ。相手の自分に対する怒りや侮蔑や非難などを実感せず、つまりは心からの反省がないから、失態を同情へ引きこもうとする。それは、真の謝罪などないことを自ら示している。厚かましいのである。この厚顔無恥が利己主義者の態度であることは言うまでもない。

 さて、今やことばの世界の主流は、テレビとインターネットとになってきた。残念ながら、新聞や雑誌はその後塵を拝している。まして書籍はますます趣味的となってきている。

 しかし老生は、インターネットとはまったく無縁なので、その世界の話は分らないし、もちろん知らない。辛うじてテレビは折節見る程度の、時代遅れの人間である。それだけに、逆に気になることによく出会す。

 例えば、共同作業のときの合言葉。物体を数人で持ち上げるとしよう、老生が幼少時から身に付いているのは、「1、2の3」の掛け声の内、「3」でぐっといっしょに持ち上げる方式。それが本流であった。

 ところが近ごろは違う。テレビでそういう場面を見ていたとき、こうだった。「1、2の3、よいしょ」であり、「よいしょ」のときにぐっといっしょに持ち上げたのである。それを見ていて老生はこけた。いや、心が折れた。共同作業のしかたが根本的に変ってしまっているのだ。しかし、「1、2の3、よいしょ」はないでしょう、「1、2の3」ですよ。

 どうしてそのように変化したのか、その理由らしきものとしては、どうも西洋流のカウントダウン方式のような気がする。

 「5、4、3、2、1、発射」である。この「発射」が「よいしょ」に当るのではあるまいか。

 となると、美輪明宏の持ち歌、「ヨイトマケの唄」も「トオちゃんのためなら、エーンヤコラ」の「コラ」で落す打杵は、後世、「エーンヤコラ、(よいしょ)」と一呼吸置いての落下になるのかもしれない。歌は世につれ、人につれではあるわ。

 事実、テレビにおいては、或る映像を映し出す前にカウントダウンを取り入れており、順に「(3)、(2)、(1)」と数字を示して、その次に映像の登場。もうこれはふつうになっている。「(3)、(2)、(1)」の(1)のところで映像が示されることはない。

 そういう変化の中で、新聞紙上、最近すごく気になることばがある。それは「も」という助詞の使いかたである。

 「も」のふつうの用法は、並べるときである。「リンゴもバナナも食べた」というふうに。もちろん、古文にまで溯るならば、強めることや感動を表わすこともあるが、それは現代文ではほとんど現われない。

 ところが、新聞の見出しにおいて、異様と言ってもよいような使いかたが近ごろなされている。例えば、次のような見出し。

 (1)橋下再選も議会運営困難
 (2)円安も輸出拡大遅れ
 (3)直訴も幹部不問

 (1)は、「橋下再選があったとしても」、(2)は「円安になっても」、(3)は「直訴をしたとしても」といった意味である。すなわち、「も」を「……だけれども」と逆接の意味に使っているのである。

 逆接の助詞となると、形の上で「も」字があるものを拾ってみると、「行かなくとも」の「とも」、「行けども」の「ども」がある。

 すると、この「……するとも」・「……すれども」の「とも・ども」の「と・ど」を抜いて「も」に逆接の感じを被せたのであろうか。

 これには、老生、非常に抵抗を覚える。「するとも」或いは「すれども」の意を勝手に「も」一字に託すのは、国語の破壊ではないのか。

 そういう勝手な「も」用法が産経新聞の見出しにも増えている。これは改めるべきである。

 推測であるが、見出しという短いスペースであるため、そこにぎゅっと意味を圧縮して示したいのであろうが、それは邪道である。

 不自然なことばづかいはしないことである。「感動をありがとう」だの、「元気をもらいました」だのなどというような、気障で歯が浮くような不愉快なことばづかいがテレビで多く飛び交っている。なんだか今や〈節度〉という心得がなくなってきているような感じである。

 しかし、現代ではもはやテレビの存在を否定することはできない。それはそれとして避けられない現実である。

 とすれば、結局は国語教育を充実させるほかないという基本に帰ってくる。

 ただし、「国語」の意味が分っていない人が多いので、あえてその定義を記しておこう。「国語」とは、「国」家の歴史・文化・伝統を背景として展開してきた言「語」であり、その中間を省略して「国語」と言う。だから必然的に古典が入るのだ。

 「日本語」というのは、日常会話レベルのもので外国人用。外国人は日本語は分っても我が日本国語は分らない。

 同じく、日本人は英語や米語はできるようになれるが、英国語や米国語は一生かかってもできない。英・米それぞれの歴史・文化・伝統が身についていないからである。

 われわれ日本人にとって大切なのは国語である。英米語はいくら学習しても底が知れている。国語学習の徹底が今こそ求められているのだ。

かじ・のぶゆき 昭和35年、京都大学文学部卒業。名古屋大学・大阪大学・同志社大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授、立命館大学フェロー。文学博士。中国哲学専攻。著書に、加地伸行著作集全三巻(『孝研究』『中国論理学史研究』『日本思想史研究』・研文出版)、『儒教とは何か』(中公新書)、『沈黙の宗教―儒教』(ちくま学芸文庫)、『論語全訳注』『漢文法基礎』(講談社学術文庫)など。