新井克弥(関東学院大学文学部教授)

3万人?12万人?


 8月30日、参院で審議中の安全保障関連法案に反対するグループ(学生グループ『SEALDs』が中心)が国会前で大規模なデモ(「安保反対10万人デモ」)を繰り広げた。主催者側発表は13万人(周辺も合わせるとのべで35万人)、警察発表で3万人が参加したと言われている。主催者側と警察側の発表数があまりにかけ離れているので空撮写真から計算する者も現れる始末。で、ここで問題になっているのは、つまり「参加者の数が多ければ多いほど、運動が盛り上がっている」という基準だ。だから主催者は盛るし、警察側は削る。

 さて、実際のところどうなんだろう?と思う方もおられるかもしれないが、現代では実は3万人だろうが12万人だろうが、こういった運動の盛り上がりを示す指標には必ずしもならない、つまりどちらでも同じと僕は考えている。ちなみに、僕は安保法案反対である。だから、ここでデモをやってくれた人たちにはエールを贈りたいとは思う。しかし、「いまどきのデモ」がどういう意味を持っているかについては冷静に考える必要がある。

 ポイントは、ここに集まった人々が母集団を忠実に反映しているかどうかだ。恐らく、かつてであるならば、ある程度は反映していたと言えるだろう(60年安保、70年安保の際、やはり学生たちが暴れ回ったが、これに親密性を抱いていた一般人は多かったはずだ。ま、中身が問題ではあったけれど)。ところが、最近ではちょっと確信を持ってこう断言はできなくなっている。

所属集団と準拠集団、分離の加速


 社会学には「所属集団」と「準拠集団」という二つの考え方がある。所属集団とは社会的に認定された集団。共同体、組織、企業、グループなどがこれに該当する。所属集団内の人間は一定空間に拘束された状態(村落共同体など)だったり、あるいは所属していることを外部から認定されている状況にある。例えば、僕であるならば大学教員ゆえ、赴任先の大学が所属集団になる。児童であるのならば小学校が、生徒であるのならば中学や高校が所属集団だ。

国会正門前の道路を埋め尽くし、安保法案反対を訴える大勢の人たち=8月30日午後、東京都千代田区
 一方、準拠集団とは個人の信念や行動の拠り所とする集団。つまり、その集団の考え方や行動のパターンを規範とするような集団。空間的な縛りとか、社会的な認定とかを必要としない。アタマのなかで「自分がここに所属している」、つまりアイデンティファイしていると考えるイメージとしての集団だ。かつては所属集団と準拠集団は重なっているという状況が大半だったが、現在では必ずしもそうはなっていない。たとえば大学に所属している学生の所属集団はもちろん大学だが、大学を四年間の腰掛けとしか思っておらず、四年間のモラトリアムを使って好きなことをするために利用しているだけで、その他の活動に精を出していて「心ここにあらず」としたら、この若者の準拠集団はアイデンティファイする側、つまり学生が精を出すパラダイム=拠り所にある。そして、所属集団と準拠集団、どんどんと一致しなくなっているのが現代なのだ。

 所属集団と準拠集団の分離はイメージ、具体的にはメディアによって媒介される。メディアを通じて認識した世界にアイデンティファイすれば、それは所属集団の軛から逃れることが出来るようになる。そして、メディアの発達によって任意に情報を入手する可能性が広がれば、一定の準拠集団に所属する人間はますます空間に制限されることがなくなっていく。この流れは明治以降のマスメディアの発達、人口の流動性の高まりによって始まるが、これを加速させているのが60年代ならTV、そして現代ならインターネットなのだ。

準拠集団へのアイデンティファイを加速させるインターネット


 インターネットはどこにいても任意の準拠集団にアクセスできる。例えば僕は今、タイにいるけれど、こうやってブログ書いているし、朝の「あまちゃん」の再放送も見ている(時差二時間ゆえ、朝5時起きですが(笑))。今日イチローが二安打したことも知っている。つまり、僕はタイにいながら日本人という準拠集団へ向けてアクセスし続けているわけだ。

 さて、「あまちゃん」やイチローはさておき、ネットはもっともっとトリビアなものでも準拠集団を作ることができる。以前にも書いておいたけれど、僕はポルトガルワイン・オタクである。フランス、イタリア、チリ、アメリカ、スペインならわかるけど、こんなワインを常飲している輩などどう見てもマイノリティだ。でも、これもネットを紐解けば、ちゃーんと販売しているお店にたどり着くし、そこでオタクなポルトガルワイン談義も可能だ。

 で、こういったトリビアな世界というのは、以前は人間同士がつながるにはかなり大変だった。やれないことはないけれど、ものすごく労力がかかったからだ(これがやれたのは、かつてだったら宗教団体とかユダヤ人とかだったのではないか。つまり教義というメディア=準拠集団で、空間に拘束されることなく互いが結びつく)。ところが、今では簡単だ。なんのことはない、ググれば一発でトリビアな世界に入り込むことが出来る。日本中、あるいは世界中に点在する同好の士とつながりを持つことが出来るのだ。

 同好の士の間の共通関心はトリビアだけにディープだ。自分のトリビアな趣向など周囲の人はわからないから、これが見つかった瞬間、互いのコミュニケーションは「即、本題」つまり深い内容に入り込んでいく。当然、こうやって関わったならば実に楽しい。そして今度はオフ会が待っている。参加率が高くなることは言うまでもないだろう。で、日本中に点在する人間が1カ所でオフ会をやったらどうなるか。これは結構な数字になるわけで。

頻発する大規模イベント


 で、最近、こういった大規模イベントとか集会があっちこっちで開催されている。つまり10万人規模なんてのが平気で存在するのだ。全国に点在する同好の士がかなりの確率で参加するんだから。そう、こうやって結構な数が集まるのがネット社会の特徴だ。だから3万人であれ12万人であれ、その規模を議論したところで、それだけではあまり意味がない。

 ちなみに、こういった大規模な集会、実は以前から一部で存在した。それは宗教団体の大会とか総会とか呼ばれているものだ。10万人規模なんてあたりまえ。スゴイ感じがするが、準拠集団としての宗教、つまりアイデンティファイするイメージ空間ゆえ、その参加率は否応にも高くなる(つまりオフ会)。でも、こういった宗教での大会での参加数が膨大であるからといって、これがメディアに取り上げられることはない。当該の宗教団体が発行する機関紙やら新聞が大きく取り上げるだけだ。なぜか?それらの参加者の母集団が国民ではないからだ。数が多くても、それは国民全体を反映していない。

あそこにいた人たちは国民を反映しているか?


 さて国会前のデモに戻ろう。
 こうやって考えてみると、あそこに集まった人々が国民、そして世論を反映しているかどうかは定かではない。ただの改憲反対オタクの集団かもしれないからだ。もしそうであったとしても10万人程度の人間はネットでの拡散を通して簡単に集まるはずだ。ただし、その反対を考えることも可能だ。つまり、参加者は国民という母集団をキチッと反映している、と。そのどちらかは数だけではわからない。ただし一つだけ必ず言えることがある。それが、今回のイタイコト、つまり「3万人であれ12万人であれ、数字だけを取り上げて盛り上がっているだとか盛り上がっていないだとか判断することには意味がない」。

 橋下徹がこの件について「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」と批判しているが、これは前述した可能性の前者だったら当たりだし、後者だったらハズレだ。そして、根拠もなく前者と決めつけている点で、やはり「数字というトリック」に惑わされていることについては、主催者がは12万人を標榜し、これに力があると信じ込んでいることと全く変わりはない。

反対運動は、今回のデモで始まったばかりと考えるべき


繰り返し言うが、こんなことを書いている僕だけれど、安保法案は反対だ。だからこそ言いたい。「デモの参加者の人数なんて数えている場合じゃない」と。そして、こちらの立場からすれば、今回のデモを基点としてあちこちでこういった運動が起こってくれることを期待している。しかもスゴイ勢いで。もし、それが実際に起こったのであるのならば、それは結果としてデモ参加者は国民の意思を反映していると言うことの傍証になるだろうし(ルーマニアのチャウセスク政権が崩壊した時は、まさにこの図式だった)、これが打ち上げ花火だったら一部の法案反対者による集会ということの傍証になるだろう。

 なので、問題はこれから。結果はいずれついてくる。

 オマケ:ちなみにメディアがこの報道をスルーする傾向があるというのは別の問題だが(2012年に行われた「さようなら原発10万人集会は、今回以上に取り上げが小さかった)、これについては場所をあらためて、いずれ考えてみたい。
(ブログ「勝手にメディア社会論」より2015年9月3日分を転載)

あらい・かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。