別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より

杉本幹夫(近現代史・植民地研究家)


第一節 土地調査事業


 日本の朝鮮統治で最も非難されるのは、「土地の収奪」である。1995年発行の韓国国定高校歴史教科書には、「土地調査事業により、不法に奪い取られた土地は、全国農地の40%に達した」とある。

 日本が朝鮮を統治して驚いたのは、行政の乱雑さであった。基本である土地の所有者、面積、使用状況が、はっきりしていないのである。飢饉で租税が納められない耕作者が逃亡し、その跡地を無断で開墾し売買したり、いつの間にか管理人が実質上の所有者になっていたり、権利関係が極めて不明確になっていた。そこで始められたのが、土地調査事業であった。
土地調査事業で実際に行われた測量作業の様子(朝鮮総督府臨時土地調査局『朝鮮土地調査事業報告書追録』大正8)
土地調査事業で実際に行われた測量作業の様子(朝鮮総督府臨時土地調査局『朝鮮土地調査事業報告書追録』大正8)
 韓国併合翌年の明治44(1911)年から大正7年まで約8年かかった。この調査は韓国政府でも1895年(明治28年)に量田調査として始められたが、政変により中断されていたものである。

 この調査で最大の問題点は、駅屯土と総称される、元々は公共用地・宮室用地であったが、実質上民間の所有となっていた土地約12万町歩(1町歩=約9900平方㍍)の所有権をどうするかであった。この裁定に当たり、総督府は数百年にわたり故事来歴を調べ、それまでの韓国政府の主張を認め、多くの土地で民の所有権を否定した。

 その他、定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がなかったりで、接収された土地が2万7000町歩あり、合計14万7000町歩の耕地が接収された。当時の全耕地面積は約450万町歩で、約3%強である。
作業から戻った担当者らは測量結果を詳しく記録し地図も作成した
作業から戻った担当者らは測量結果を詳しく記録し地図も作成した
 これに正当な売買による取得地を加えた、大正11(1922)年末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5000町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5000町歩で全耕作面積の6%弱に過ぎない。

 それでは韓国歴史教科書が主張する、40%と言う数値はどこから出てきたのであろうか。全錫淡他著・梶村秀樹他訳『朝鮮近代社会経済史』によると、「駅屯土として国有地に編入された耕地は13万4000町歩で、全耕地の5%に当たる」としている。

 5%と言う数値から、この時の全耕地面積は270万町歩としていることが分かる。未墾地と認定された90万町歩を含めると接収面積は100万町歩を超え、韓国教科書の言う40%以上と合致する。

 即ち耕地面積約270万町歩と考え土地調査したところ、全耕地面積は420万町歩以上あり、その他に未墾地が90万町歩あったのである。この未墾地は持ち主不明ということで、接収されたのである。しかし、この未墾地はあくまで未墾地であり、その後の統計でも耕地面積に含まれていない。
土地調査の測量地をもとに作成された図面
土地調査の測量地をもとに作成された図面(同)
李朝時代からのおおざっぱな土地区分図は誤差が大き過ぎる(同)
李朝時代からのおおざっぱな土地区分図は誤差が大き過ぎる(同)

 この持ち主不明の土地の接収は裁判によるものであるが、この結果接収した土地を日本人に払い下げ、30万人以上の朝鮮農民に不満を残した事は、寺内正毅総督の失敗だと言わざるを得ない。土地の所有権を国に移管しても、小作権を残す方法もあったように思う。

寺内正毅総督
寺内正毅総督
 平成8年文部省認定、清水書院発行の中学校歴史教科書には「国と少数の地主しか土地の所有権を認めなかった」と書いてあるが、土地調査完了時、土地の所有を認められたのは187万人もおり、明らかに間違いである。

第二節 斎藤総督の文化政治


 二・二六事件で凶弾に倒れた斎藤実総督は大正8年8月から昭和6年6月まで、途中、宇垣一成臨時代理(後の第六代総統)、2年弱の山梨半造第四代総督を挟んで、第三代と第五代の総督として延べ十年も朝鮮に君臨した。日本の朝鮮統治が36年であるからその3分の1近くが斎藤時代であった。彼の統治は、寺内・長谷川好道の武断政治に対し、文化政治と言われ朝鮮統治の基礎を築いたのである。

寺内正毅総督
斎藤実総督
 彼が朝鮮総督に任じられたのは、大正8(1919)年3月1日に発生した、三・一独立運動により、長谷川総督が辞任したことによる。アメリカ大統領の民族自決主義に勢いづいた朝鮮学生は、キリスト教、天道教の反日勢力と結び、前国王・高宗の国葬を機会に暴動を起こした。それから一年、全朝鮮を揺るがす大騒乱事件に発展した。この事件に頭を悩ませた原内閣は、海軍大臣を辞任後、5年も隠退生活を送っていた齋藤實を引っ張り出したのである。
李太王(高宗)国葬の葬列(『李王家紀念写真帖』大正8)
李太王(高宗)国葬の葬列(『李王家紀念写真帖』大正8)
 彼が統治に当たり立てた五大政策は―

一、治安の維持、
二、地方制度の整備
三、教育の普及及び改善
四、産業の開発
五、交通・衛生の整備

―であった。

 治安の回復の第一歩として憲兵警察を止め、一般警察に移行した。朝鮮人警官のみにあった巡査補の階級を廃止し、巡査に統一、日本人と朝鮮人の格差を無くした。

 また、朝鮮人官吏と日本人官吏の基本給の差を無くした。但し内地人は基本給の五割とか六割に及ぶ在勤加俸があったが、内地に帰ればその加俸分は無くなるのである。公立普通学校長にも大正8年、初めて朝鮮人を登用したが、その人数も次第に増やした。地方の課長クラスや裁判所の判・検事にも朝鮮人を登用し、内地人や外国人の事件にも、参画させるようにした。

 地方行政では、地方議会に当たる道評議会、府(内地の市に相当)・面(内地の村に相当)協議会等の制度を作り、民意の吸収を図った。彼の功績は色々あるが、一番は教育の普及・改善であろう。二度の制度改正により、内地の小学校・中学校等の制度と同じにした。

 特筆されるのは京城帝国大学の設置である。これについては、後ほど述べる。
慶尚北道評議会の様子(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10)
慶尚北道評議会の様子(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10)

第三節 朝鮮農業の実態


 日本外交が朝鮮に進出すると、後を追うように日本人商人が進出した。彼らは上海・長崎で仕入れた綿織物を輸出し、米の輸入を考えた。そこで知ったのは、灌漑設備の不良による広大な荒れ地である。そのことを知った細川侯爵家や後に不二興業を設立した藤井貫太郎等は農地の買収と共に、大蔵省主計局長等を経て第一次日韓協約(明治37年)により韓国財政顧問となった目賀田種太郎に働きかけ、水利組合の制度を作らせた。この水利組合に低利の金を融資させ、灌漑設備の整備を図ったのである。
京畿道振威郡青北面で干拓によって生まれた広大な農場(同)
京畿道振威郡青北面で干拓によって生まれた広大な農場(同)
 大正七年、富山の米騒動に端を発した全国的な「米よこせ運動」により、内外地一体となった米の増産計画が立てられた。朝鮮でも大正9年、水利事業を中心に品種改良、耕作法の改善により、920万石の増産計画が立てられたが、第一次世界大戦後のインフレで、14(1925)年までの6年間で予定の半分しか実績を上げられなかった。

 この第三代斎藤実総督時代に、総督に次ぐ政務総監として登場したのが下岡忠治であった。学友の大蔵大臣浜口雄幸や元大蔵大臣井上準之助を動かし、国庫補助金、大蔵省預金部からの低利資金等を引き出すことに成功した。

下岡忠治政務総監
下岡忠治政務総監
 朝鮮の西海岸は干潟が重なり、海岸線が入り組んでいるので、比較的少額の費用で干拓が大いに進んだ。ところが昭和初期の大不況により破綻する事業組合が続出し、この計画は中断に追い込まれた。

 しかしこの一連の対策により、耕地面積は土地調査終了時の耕地面積450万町歩が昭和11年には494万町歩に増え、灌漑比率面積が、水田面積の20%しかなかったものが、70%まで増えた。

 昭和6(1931)年、宇垣一成が第六代朝鮮総督に就任した頃は、世界的な農村恐慌で有名な時期である。代表的な産物である米は大正8(1919)年をピークにして、3分の1に値下がりした。当時は物々交換の時代から貨幣経済の時代に入っていた。農民は自分で作った米は現金に換えるため食べられず、粟(あわ)か稗(ひえ)しか食べられなかった。

 宇垣総督は着任後、直ちに農村を視察し、農村振興運動を展開した。この運動で宇垣が最も主張したのは、「心田開発」であった。即ち心の持ち方であった。「奉公の精神、共同の精神、自助の精神」であった。朴正煕時代の「セマウル運動」との違いは「奉公」が「勤勉」に変わっただけである。

宇垣一成総督
宇垣一成総督
 この運動と同じ時期、日本で行われた農村経済更正運動との最大の違いは、個人レベルを指導の対象としたことである。適当な農村指導者のいる集落を指導集落に選定し、各戸に家計簿を付けさせた。当時読み書きのできない人が大半だったので、村の吏員が聞き取り記帳を代行したのである。

 その課程で読み書き算盤を教え、「入(い)るを量(はか)り、出(い)ずるを制す(・・)」経営の基本を教えたのである。また同時に昭和9年、簡易学校の制度を発足させ、文盲の解消を図った。なお、これらの団体は反日運動の温床として、それまでは極めて抑制的な方針を取っていたのである。

 当時の朝鮮農家の最大の問題点は、一日の作業時間が短いことであった。田の除草、施肥、堆肥作り、家畜の飼育の奨励等により日本の農家並みに働くことを求めた。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花作り等を推奨した。これらの方針の徹底を期すべく、青年団、婦人会等を積極的に活用した。

 この結果、内地の半分強しかなかった米の作付面積当たり収量が急速に増え、農村経済は立ち直ったのである。この運動は戦後に社会経済改革をめざしたセマウル運動の原型となり、当時宇垣の秘書でブレーンでもあった鎌田沢一郎は、韓国に何回も呼ばれ、指導に当たった。
総督府は農地拡大と農村振興のため各地に水利組合を設立させた。全羅北道全州郡東上面大雅里の渓谷に益沃水利組合が建設した貯水量3万3千立法㍍のダム式貯水池(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮之風光』昭和2)
総督府は農地拡大と農村振興のため各地に水利組合を設立させた。全羅北道全州郡東上面大雅里の渓谷に益沃水利組合が建設した貯水量3万3千立法㍍のダム式貯水池(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮之風光』昭和2)