渡辺惣樹(日米近現代史研究家・作家)

かつて日本人は強制収容された


 私たちのように北米西海岸に住むものにとって、韓国ロビー団体の進めるいわゆる「慰安婦像」設置運動は不気味なものである。とくに子供を現地の学校に通わせている家庭は心配になる。アメリカ・カナダでも、日本人は野蛮であると信じたい政治勢力が白人のグループにもいるだけになおさらである。反捕鯨グループのプロパガンダ映画「ザ・コーヴ」を授業で見させられた息子が気落ちして学校から帰ってきたことを思い出す。わが町に「慰安婦像」なるものなど建てられたらたまらない。

 私の住む町(カナダ・バンクーバー)では、百年前、白人種による激しい反日本人暴動があった(一九〇七年九月七日)。それだけに神経が過敏になる。この日の暴動では、ダウンタウンにあった日本人街が白人集団に襲撃された。幸い当時は日英同盟が堅固な時代であったから、カナダ政府は日本に対して丁重に謝罪した。そのため大事には至らなかったものの、この事件は後の日本人移民の運命に暗い影を落とした。

バンクーバーにある日本人街、パルエル
バンクーバーにある日本人街、パルエル
 バンクーバー暴動の調査に当たったのはウィリアム・マッケンジー・キングである。後にカナダ首相となる人物である(任期:一九二一年から三〇年および一九三五年から四八年)。反日本人暴動の調査に当たったころのマッケンジー・キングはまだ三十代前半の少壮官僚であった(一八七四年生まれ)。その調査を終えた彼を、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトがワシントンに招聘した。

 当時、ルーズベルト大統領はアメリカ西海岸一帯で嵐のように吹き荒れる日本人移民排斥運動を深く憂慮していた。バンクーバーの暴動もシアトルからやってきた日本人・朝鮮人排斥連盟の同市支部長に扇動されたものだった。アメリカの排斥運動とバンクーバーの暴動は連動していたことをルーズベルトは知っていたのである。

 ルーズベルト大統領は、日本人排斥運動に道理のないことをよくわかっていた。彼は日本文化に造詣が深かっただけに苦々しい思いを持っていた。道理がないだけに日本がアメリカに怒りをぶつけてもいたしかたなかろうとも考えていた。しかし政治家としてはそれを座視するわけにはいかなかった。ルーズベルトは、一八九八年の米西戦争で領土化したフィリピンの安全保障が気がかりだった。それを脅かす可能性のある日本の目を北に向けなければならなかった時期であった。日本を刺激することを避けながら国内の反日本人活動を沈静化させなければならなかった。

 ルーズベルトにとって日本人移民問題を解決する最善の方法は、ハワイ経由も含む日本からの移民そのものを抑制することであった。ただその方法は強制であってはならなかった。誇り高い日本人を差別的に扱うことは避ける必要があった。日本人の誇りを傷つけることがないよう、あくまで日本政府の自主的判断で日本人移民の数を減らさなければならなかった。ルーズベルト政権は、一九〇七年十一月から翌年二月まで交渉を続け、日本政府に移民の自主規制(日米紳士協定)を約束させている。

 対日外交に丁寧(慎重)であったルーズベルト大統領は、日本の同盟国であるイギリスに配慮することを忘れなかった。カナダは大英連邦の主要国である。先述のバンクーバー反日暴動の調査に当たったマッケンジー・キングをホワイトハウスに招き(一九〇八年一月二十五日)、イギリスに対して、移民規制問題では日本にかなり強硬な態度で交渉していることを伝えた。日本人移民問題で同じような悩みを抱えるカナダを通じて、アメリカの考えをイギリス本国に伝えさせ、予め了解をとっておきたかったのである。

 ルーズベルトは、バンクーバー暴動の詳細を知るマッケンジー・キングに対し、ロンドン行きを勧め、北米西海岸の日系人移民問題をイギリス政府に直接説明するよう要請した。この考えにローリエ・カナダ首相は理解を示し、マッケンジー・キングをイギリスに遣っている。一九〇八年春にイギリスに渡ったマッケンジー・キングはイギリス政府にカナダの考えとルーズベルト大統領の意向を伝えたのであった。彼は、そこから更にインド、中国、日本に足を延ばして移民問題の調査に当たっている。彼はこの経験を通じて、日本人を含む全てのアジア系移民に強い警戒感を持つことになった。

 マッケンジー・キングは第二次世界大戦勃発前後の時代に長期にわたってカナダ首相を務める大物政治家となっている。彼は、日本人(他のアジア系も含む)は白人社会に同化不可能な人種であると決め付けた。日米開戦後は、アメリカの日系人強制収容政策に倣って、カナダ西海岸の日系移民を内陸部に強制移住させている。彼の日本人嫌いは一九〇七年九月のバンクーバー暴動に端を発していたのである。

 バンクーバーには日本人街があった。しかし、強制収容を経験した日系移民のほとんどはそこには戻らなかった。筆舌に尽くしがたい苦痛を思い出したくなかったのである。二束三文で売り払わなければならなかった土地や店舗を見たくはなかった。かつて日本人街のあった場所に、もはや日本人は住んではいない。そこにある小さな公園で毎夏開かれる日系人のお祭り(パウエル祭)だけが、このあたりにかつて日本人街があったことをかすかに思い出させるだけである。

 北米西海岸の諸都市で実施された日本人強制収容政策がいかなるものであったか。日系人が味わった苦しみはいかなるものであったか。それについては当時のジャーナリストであったカレイ・マックウィリアムスが詳細な記録を残し(一九四四年)、時のフランクリン・ルーズベルト政権を批判している(『日米開戦の人種的側面』拙訳、草思社)。一読を勧めたい。