江田憲司(維新の党前代表)


 私は30代の若手官僚時代は、安倍首相を凌ぐ?「イケイケドンドン」の「普通の国」論者だった。集団的自衛権などはフルに認め、自衛隊も海外にドンドン出せば良いという考えだった。

 米ハーバード大国際問題研究所への留学時(1987年~88年)にも、当時、クラスメートだった日本の防衛研究所の研究員からこう言われた。「だから、経済しか知らない人間は困る。安保のことなど何もわからないのに勇ましいことだけを言う」。

 その私が「コペルニクス的転回」をしたのが、1990年6月末、通産省から首相官邸に出向した時だった。私が官邸勤務になって、その一か月後に、イラクがクウェートに侵攻(1990年8月)し、湾岸危機から湾岸戦争へと発展していく時期だ。

 この時、戦後はじめて真の国際貢献を求められた日本は、当時、栗山事務次官、小和田外務審議官という戦後最強と言われた外務省の布陣をもってしても「トゥーリトル・トゥーレイト(少なすぎる遅すぎる)」と称されたように、国際的には評価されなかった。「小切手外交」とか「金は出すが汗はかかない」とも言われた。戦後、クウェートが米国の新聞に出した感謝広告に「JAPAN」の名前がなかったという「湾岸戦争のトラウマ」である。

 この、湾岸危機から戦争→40億ドル周辺国支援→90億ドル戦争支援→掃海艇派遣→三日三晩の徹夜国会によるPKO法成立、という流れの中で、私は、海部、宮沢総理の演説原稿の下書き、官邸の国会担当として丸々二年間(~1992年6月)を過ごした。そして、そこで学んだ、痛感したことが、政治家がいかに安保、国防についての専門知識に疎く、ましてや、それに携わった経験もないということだったのである。 

 その思いをさらに強くしたのが、その後、今度は、橋本龍太郎総理の政治担当秘書官として官邸で過ごした日々(1996年1月~98年7月)だった。「朝鮮半島危機」や「中台危機」等を受けた「日米ガイドラインの見直し」(96年4月~)、それに基づく「周辺事態法」の策定作業、そうした仕事を経験するうちに、「こんな日本の政治家のレベルでは、自衛隊を海外に派遣してオペレーションするのは、子供に鉄砲を持たせるようなものだ」と悟ったのである。
1997年9月、北京・中南海で中国の江沢民国家主席(右)と会談する橋本龍太郎首相(共同)肩書はいずれも当時
1997年9月、北京・中南海で中国の江沢民国家主席(右)と会談する橋本龍太郎首相(共同)肩書はいずれも当時
 自衛隊の最高指揮官である総理大臣も、指揮命令をする防衛大臣も、本来ならば外交、安全保障に精通していなければいけない。しかし、当時の橋本総理は、軍事オタクと言われる石破茂元防衛大臣を上回る軍事知識を持っていたが、そんな政治家は稀だということもわかった。選挙で外交や安全保障の見識が問われない、いや、それでは票にならない。この事実は政治家にとって宿命的なものなのだ。

 「シビリアン・コントロール」と称して、政治が自衛隊をコントロールするという建前にはなっているが、知識や経験のない政治家がそれをまっとうできるわけもない。実際に軍事行動を経験していない自衛隊自身も、海外で他国軍と共同でオペレーションできる能力はまだまだ不十分だし、その戦略も机上でのそれにすぎない。専守防衛を旨としているが、自衛隊も世界からみると、ある意味「軍隊」とみられてもやむをえないことを考えると、その指揮命令をこの程度の政治家にゆだねることなど危険極まりないと思ったのが、いまの私の原点なのである。

 安保は、理想を語れば良いというものではない。ましてや、「机上の空論」であってもいけない。仮に理屈や論理では正しくても、現実には、その通りにいかないのも安保である。だからこそ、自衛隊の海外活動には、しっかりとした歯止めをかけなければならないのだ。

 戦争というのは、言うまでもなく「人と人の殺し合い」だ。特に罪のない民衆、弱い者に悲惨な結末をもたらす。本来、ぎりぎりの外交的手段を尽くし、それでもだめなら、最終最後の手段としてやむを得ず行使されるべきものだ。そして、その場合も、「自衛権の行使(自衛戦争)」か「国連決議による場合」に限られるという、国際社会のルールにのっとらなければならない。

 今年は戦後70年。あらためて苦難の人生を歩まれた先人たちに思いを致し、その上に立って幸福を享受している我々世代の責任を深く自覚し、後の世代に恥じない日本をしっかり遺していかなければならない。