『Voice』2014年8月号[総力特集]日中冷戦、変わる自衛隊 より》

 世良光弘 (軍事ジャーナリスト)


やりがいのある災害救援活動


 2011年4月11日午後2時46分。宮城県東松島・大曲地区。

 震災からちょうど1カ月後に、サイレンが鳴った。隊員たちは頭から足まで泥まみれの姿で整列し、深く黙祷を捧げたのちに再び作業を開始した。

 大津波で破壊し尽くされたこの地区に、災害発生後、すぐに派遣され捜索を続けてきた。残骸を重機で取り除き、一歩一歩、腰まで泥水に浸かりながら慎重に1日に数mではあるが、隊員たちは横並びに棒を持ちながらゆっくりと前進していく。御遺体を傷つけないようにするために最後は手作業になるためだ。ひと月が経ったが、見渡すかぎり瓦礫の山は残っていた。疲労の色は隠せないが、まだまだ「任務」は続く。

 「ここが戦場だと、われわれ戦車部隊はこのような近距離では御遺体とは遭遇しないはずです。当初は動揺しましたが、10日間で慣れました。被災地では、われわれのような若い力が必要とされており、その力が少しでも発揮できれば幸いです。一刻も早く御遺体をご家族のもとにお戻ししたい」(陸上自衛隊・宮城・第6師団第6戦車大隊・C三尉)

 被災者の方とは比べものにはならないが、このひと月は彼らにとって、永遠に忘れ去ることのできない「任務」であったろう。もちろん、助けられた大事な命も数えることができないほど多い。

 筆者も震災後、岩手県釜石市の小学校の校庭に野営・展開した部隊(秋田・第9師団第21普通科連隊)と行動を共にしたが、捜索部隊は雪が舞うテントで夜を明かし、朝の5時から市内の各所で救命活動を開始、夜10時に任務を終えると数時間仮眠してまた任務。

 炊き出しで温食を被災者には配るが、自らは缶詰などの戦闘携行糧食。温かい食事にありつけたのは震災後、ひと月以上経ってからだった。昼夜を問わずほとんど不眠不休での作業は続いていた。

 「結婚式の最中に地震発生で、新婦を置いて新郎の衣装で部隊に駆けつけました。翌12日朝には釜石に入り、救護活動をしました。もともと仲間を助けるため衛生小隊に所属したのですが、こんな大災害に派遣されるとは思ってもみなかったです。少しでも役立ってうれしく思います」(同普通科連隊・S三曹)

 彼らにも人生がある。しかしすべては任務優先だ。自らも被災し、家族の安否もわからないまま出動した隊員も多かった。

 「自分は訓練で宮城・多賀城駐屯地に行ったときに被災。押し寄せる津波も見ました。すぐにボートを出して約1000名の住民の救出を手伝い、25日に原隊復帰。初めて休暇を取り、行方不明だった家族の確認後、部隊が展開していた釜石に着任しました。再び被災地ですが、これが自分の仕事ですから。子供たちから敬礼されると本当に心が和みます」(同普通科連隊・S二曹)

 若い隊員のなかには、子供のころ雲仙普賢岳の噴火や阪神・淡路大震災を見て自衛隊を希望した者も多い。この悲惨な状況も自分の志望動機を達成していると言い聞かせ、乗り越えようとしていた。

 なんとか人の役に立ちたい。それは海上、航空自衛隊員も同じだ。

 仙台沖で筆者が乗艦した海自第2護衛隊群(佐世保)ヘリ護衛艦「くらま」の乗員たちも、その気持ちはみな同じだった。同艦所属の3機のSH-60哨戒ヘリは震災後、偵察救難飛行のためいち早く被災地に急行。海上で津波によって漂流する人や陸地で孤立した要救護者を助けたあと母艦に戻り、艦内にある、ありったけの毛布や食糧を被災地に届けた。

神戸港に入港した海上自衛隊の護衛艦「くらま」(手前)などの練習艦隊=神戸市中央区
神戸港に入港した海上自衛隊の護衛艦「くらま」(手前)などの練習艦隊=神戸市中央区

 「上空からのSOSを見つけると真っすぐに向かい、着陸できない場所でも大型のネットを機内で改良してホイスト(吊り下げ装置)で降ろせるようにして、被災地に順に届けていきました。もちろん通常の乗組員以外にも4、5人が乗って孤立した集落で瓦礫の撤去を行ないましたが、集まった艦艇は海自の創設以来の規模で、誇りをもってできる、やりがいのある仕事でした」(I二佐)

 大きな余震があると、護衛艦クラスでも大きく揺れる。

 そんななかでヘリの発艦や整備を24時間体制で行ない続ける彼らを見ているだけで胸が熱くなった。

 航空自衛隊も松島基地では、津波にやられたF-2戦闘機18機が無残に残骸を晒しているなかで、救援物資を受け入れるために滑走路を使えるようにしていた。同時に、行方不明者の捜索そして被災した住民に食事を与え、浴場を開放するなどして懸命の努力をしていた。九州で咲いたサクラを空輸して、まだ寒い東北の被災者の方々に喜ばれていたのが印象的な記憶としてある。

 自衛隊では震災発生時より、当初の10万人体制で「災害派遣」を行ない、同年の8月31日までの174日間で延べ約1058万人が動員された。

 国民にとって災害時に自衛隊は「最後の砦」である。

 本稿では国民の自衛隊に対する意識が大きく変化した東日本大震災のときを振り返ったが、最近でも昨年10月の台風26号による伊豆大島での大規模な地滑りや、今年2月の関東の大雪による孤立でも活躍している。しかし一部には、自衛隊の、その存在と活動が「暴力装置」だとする時代錯誤的な見解があるのは驚き以外の何物でもない。

法律がなければ動けない


 たしかに、2012年1月に行なわれた内閣府による「自衛隊防衛問題に関する世論調査」では、「自衛隊が存在する目的」「自衛隊が今後力を入れていく面」についての質問に対する回答では、「災害派遣(災害のときの救援活動や緊急の患者輸送)」がトップで、「国の安全の確保(外国からの侵略の防止)」を4~5ポイント上回っている。

 だが、いうまでもなく自衛隊の「主たる任務」は、「国防(防衛出動)」であり、「災害救助」は、「治安出動」「海上警備行動」と同じく「従たる任務」である。南西方面の尖閣諸島をめぐる中国の不気味な動きがここ数年にわたって恒常化している現状では、国民の意識も変わりつつあるかもしれない。

 5月15日、安倍総理がテレビ演説で「集団的自衛権の行使容認」に対する考え方を説明した。これを容認するか否かは国民的議論を待たなければならないが、新たに法律をつくらなければ「個別的自衛権」ですら行使が難しいのが現状だ。

 なぜなら「国内法的には軍隊ではない」という特殊な事情をもつ自衛隊の運用を、自民党が進めようとしている「集団的自衛権」に対する憲法解釈の変更だけで、すべて網羅することは難しいからである。

 自衛隊という組織は、法律がなければ動けない。現在の自衛隊の法律では「平時」と「有事」の区別しかないため、たとえば「平時」に海上保安庁の船が沈められようとしても、現状では海自は動けない。

 「相手側の武装が本格的で、海保では対処困難な場合は、首相の承認を経て防衛大臣から発令される『海上警備行動』(自衛隊法第82条)を法的根拠に出動できるようになっています。しかし結局のところ、武器の使用は自衛隊の警察権行使で“威嚇”や“正当防衛”などに限られています。中国の公船だと何もできないのが現状です」(海自・M二佐)

 「海上警備行動」が初めて出されたのは1999年に漁船を装った北朝鮮の工作船が領海の日本海に侵入し、海保の巡視船が振り切られたときだ。しかし船体射撃ができなかったので、最終的に取り逃がした。

 さらに、2004年に中国の原子力潜水艦「漢」級が石垣島周辺を領海侵犯したときにも発令された。だが、海保の所属する国交省と防衛庁(当時)との調整や政治的判断によって、発令があまりにも遅かった。その結果、「追跡」だけで終わり、必要な対策を取ることが遅れている。

 管轄する省庁間の縦割り行政も見直すべきだ。中国は日本の法律を詳しく分析し、海保の海上保安法と海自の自衛隊法がまったく別の法体系になっていることに注目し、その「隙」を狙ってくるだろう。どんな状況でもシームレスな対応ができる法律を早急につくる必要性がある。

 「『海上警備行動』が発令されるまでは、現実的には、護衛艦や潜水艦の艦長には緊急時の対応についての独自の権限がないため、こちらから動くことは難しい。『海上警備行動』が出ても、諸外国と違って、何があっても交戦することは避けるような法体系であり、ROE(交戦規定、部隊行動基準)も曖昧です。

 たとえば魚雷を発射されて損害が出た場合に防衛大臣の許可を得て、初めて『正当防衛』が認められ『反撃』できるのではないでしょうか。そのころには味方が数隻沈められているのでは、とたいへん不安に感じています」(海自・T一尉)

 もし中国が離島を本気で狙うのであれば、海上警備行動が発令したとしても、上陸を許してしまうかもしれない。時間が経てば離島占拠は既成事実化してしまうだろう。いったん離島が占拠されれば、軍事的な奪還作戦は難しい。

 その次の段階は、いきなり有事の際の「防衛出動」となる。自衛権を行使しなければならないほど相手の攻撃意思が明らかな場合、国会承認などの手続きを経て総理大臣が発令することとなっている。「海上警備行動」と「防衛出動」のあいだに何らかの法整備が必要なのではないか。

 相手が漁民などの民間人を装い、武装した“軍人”が尖閣諸島などの離島へ上陸してくるといったケースにもしっかり対応せねばならない。このような“グレーゾーン”と呼ばれるケースなどは、「集団的自衛権」の議論とは別に「個別的自衛権」として法整備を加速化させる必要がある。なぜかというと、そもそも「個別的自衛権」というのは、あくまでも「国家対国家」に限定して用いられる法的概念であるからだ。歴代政府のいままでの見解では、組織的、計画的な武力の行使以外に対しては、わが国は自衛権を行使できないという解釈だ。

 現実的には、冷戦終結後の国際紛争の多くは「国家対非国家」あるいは「非国家対非国家」の争い。つまり、いくら「集団的自衛権」の行使が可能になったところで、テロ・ゲリラ組織などに対しては「現行法」で対応するには不備が多い。

 これらに対応するのが、主に陸自の場合、「治安出動」という(海自における「海上警備行動」に当たる)。警察官職務執行法を準用した武器の使用が可能(自衛隊法89条)であるが、「事態に応じ合理的に必要と判断される限度で」(同法90条)とされている。

 だが、この「治安出動」は、自衛隊創設以来、いままで一度も発令されたことはないし、国会でその運用について議論になったことはあまりない。研究されていないまま、いきなり自衛隊が海外における「治安出動」をさせられたのが、国連平和維持活動(PKO)といってもいい。これまで隊員たちが現地で大いに悩まされてきた自衛隊の「海外派遣」について順次考えてみよう。

現地でのギャップに苦悩

 自衛隊初の陸上部隊のPKO活動は、1992年9月のカンボジア派遣であった。当時の社会党、社民連、共産党など野党が「牛歩戦術」で国会の採決を引き延ばしたが、同年の6月に「PKO協力法案」が可決され、自衛隊が「海外派遣」されることになったのだ。

 筆者は、当時のニュースを短波ラジオでカンボジアのコンポントムで聞いた。翌年、この地で選挙監視ボランティアの中田厚仁氏(当時25歳)が殺害されるほど、現地は混乱していた。

 法案には「紛争当事者間の停戦合意」が前提となっていたが、実際には「停戦合意」は守られていなかった。国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の監視にもかかわらず、政府軍(ヘン・サムリン軍)とポル・ポト派のあいだで、実際に紛争は続いていたのである。UNTACが主導する兵員集結や武装解除も一部の地域以外ではまったく進んでいなかった。政府軍に従軍して地雷地帯をようやく抜けても、ゲリラ化したポル・ポト派の砲弾が雨あられと降り注ぐ。

 カンボジアに派遣された自衛隊員たちは、政府から説明されていた状況と現地でのギャップに苦悩することになる。

 「93年5月に、文民警官の高田晴行警部補もポル・ポト派と見られる武装ゲリラに殺害されました。われわれが駐留した約1年間ずっと内戦状態でした」(陸自・I准尉・当時)

 「ゲリラは当然ながら選挙妨害をします。武器は拳銃と小銃しか携行を許されていないし、ROEが厳しく、ほとんど『正当防衛』『緊急避難』以外は使えませんでした。同じ地域の他国のPKO要員も守れないのです。日本の選挙監視員たちを守る法律もないため、孤立した彼らを『パトロール・巡回』と称して、自らが攻撃を受ければ『正当防衛』するという名目でしか、彼らを守れませんでした」(陸自・M二尉・当時)

 政府の要請によって、「海外派遣」が決まれば、その命令に従って自衛隊員は黙々と任務をこなした。

 94年9月のアフリカ・ルワンダへの人道的な国際救護活動も同様に「現地ザイールは紛争当事国ではなく、任務遂行に危険が少ない」という政府の判断だった。百戦錬磨のアメリカ軍やフランス軍もあまりの惨状に撤退したこの地に「武装は相手を刺激し、自衛隊の海外での『武力行使』に当たるため小銃のほかは機関銃一丁とし、原則的には不使用とする」として派遣したのは、皮肉なことに野党時代に「自衛隊派遣」に反対した村山富市首相である。

 筆者は、同年11月に陸自の宿営地を訪れたが、直前に車を強奪され危険にさらされた日本のNGO職員を「輸送」したとして派遣部隊は一部のマスコミから批判を受けていた。自国民を救出し、安全な場所に「輸送」することもPKO法案や実施計画にはないという理由だ。

 これらは、現地の情勢をまったく知らないで自衛隊の「手と足を雁字搦め」にして、一方で平和維持活動を全うせよ、という無理難題であった。

 当時、現地はかなり緊迫しており、規律の低下したザイール軍や民兵と難民キャンプに潜伏する武装勢力との衝突は連日。ザイール・ゴマ空港では銃撃戦が発生、筆者をナイロビから運んだ空自のC130輸送機も、長い時間駐機するのは危険との判断ですぐに引き返したほどだ。

 ゴマは1700mの高地にあり、昼間は熱帯だが、夜はかなり冷え込む。有刺鉄線と土嚢や塹壕があるだけの宿営地から、難民キャンプで医療行為や人道支援を行なうために毎日、出動し、パトロールする。現地では赤痢やコレラが蔓延し、宿営地の上を曳光弾が飛び交う夜もあった。

 真夜中に唯一の装甲車両(指揮通信車)へ、銃撃戦の現場から無線が入る。

 「死者2名。頭部を撃ち抜かれている模様」。筆者が、「われわれは生きて無事に帰れるのでしょうか?」と問うと、警護班の班長が少し上ずった声で、

 「大丈夫です。この地に陸上自衛隊が存在するかぎりは」

 と答えたのが印象に焼き付いている。法的にも武器使用は「正当防衛」しか認められず、カンボジア同様、政府は“机上の空論”だけで送り出していた。

 2001年12月、ようやくPKO法案改正で防護対象として「自己の管理の下に入った者」が加えられ「自衛隊の武器等」という文言も加えられた。しかしこれも「たんに言葉の遊び」に近く、基本的には武器使用は「正当防衛」のみという状態が続いている。

 こうしているあいだに、2003年3月に米国のイラク戦争が勃発すると、自衛隊は中東に派遣された。航空自衛隊が3~4月、7~8月に「人道的な国際救援活動」として活動し、同年7月に国会で「イラク特措法」が成立すると、翌年1月より陸上自衛隊がサマーワに派遣された。

 当時の小泉純一郎首相の「自衛隊の活動する地域は非戦闘地域」という答弁で、イラクでの自衛隊の活動は2009年2月まで続けられた(陸上部隊は2007年7月まで)。

 「陸自のサマーワでの活動は給水や道路補修などの人道支援を行ない、治安維持はオランダ軍やオーストラリア軍が頼みでした。陸自の施設や拠点付近で豪州軍が暴徒に襲われたときも、傍観しかできなかったことが少なくとも2回ありました。駆けつけ警護は憲法で禁止された武力行使に当たるためできません。自衛隊の武器使用基準を説明しても、どの国の部隊にも理解できず、白い目で見られました」(陸自・O三佐)

 「施設では陸自の活動中、ロケット弾や迫撃砲による攻撃を13回にわたって受けています。これらによる死者は運良く出ませんでしたが、まさに『戦闘地域』に当たるのではないでしょうか。イラク特措法で派遣された自衛隊員のうち陸海空合わせて16人が自殺しています(在職中)。派遣後も入れると自殺者は合計28人とされていますが、人道復興支援とはいえ、実際は戦地に行くのですから心のケアもこれから重要だと思います」(陸自・H一尉)

 派遣任務自体を否定するつもりはないが、送り出した「政府」の「認識の甘さ」に、現地に派遣された「隊員」が大きく振り回され、心を病んでいったのかもしれない。

国民の理解と支えが必要


 自衛官は入隊時より「国を守るために命懸けの仕事をするのが使命」とわかっていても、彼らも一人の人間だ。死ぬことを嫌がらない隊員など、どこにもいないのではないか。

 彼らの心情を理解してあげることで、自衛官は危険な任務にも就くことができるだろう。言い換えれば、任務を全うさせるためには、国民の理解と支えが必要なのだ。それがなければ自衛隊は活動できない。

 「違憲の存在」「軍国主義の復活」あるいは「海外派兵」などという批判は、彼らではなく、時の政治家に対して発する言葉だろう。

 自衛隊が創設されたとき、旧軍のように軍部が暴走することのないように、シビリアン・コントロール(文民統制)の下にその組織を置いたのは間違いではない。

 だが、60年という歳月のあいだ、彼らは与えられた任務を全うしてきた。それはわが国の平和と独立を守り、人命救助の災害派遣や国連PKO活動などの国際平和協力活動にも黙々と参加してきたことである。現在、“暴走”しているのは政府のほうではないだろうか。

 政治的議論になっている「集団的自衛権」も、首相は「自衛隊が武力行使を目的とした湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と明言しているが、具体的な「歯止め」がきわめて曖昧に残ったままで疑問が残る。

 筆者は、1985年8月に起きた日航機墜落事故の御巣鷹山の凄惨な現場で、救出任務から御遺体収集を最後まで行なった隊員たちの姿を見て以来、事あるごとに国内外での自衛隊の活動に同行してきた。現在までに、日本を取り巻く国際環境は大きく変化していることも事実であろう。一方でアメリカ軍の活動にも少なからず同行する機会をもったが、混迷を深める今世紀に入って、彼らが体験したのは、二つの大きな戦争だ。アフガニスタン紛争とイラク戦争である。双方の戦争で犠牲になった兵士の数は、アメリカ軍だけではなく攻撃に参加した多国籍軍も入れると、現在までに約8000人だ。自衛隊員にも「血を流せ」とは現状ではとてもいえない。

 ただでさえ東シナ海に進出しようとしている大国・中国を目の当たりにして、自衛隊が戦うべき相手はアメリカの「敵国」ではないだろう。神学論争の末に、自衛隊が「政争の具」にされるのには違和感を覚える。

 むしろ急務なのは、“国防最前線”の自衛隊の行動についての法的基盤やROEを定め、安全保障体制を構築することではないだろうか。それこそが“普通の国ニッポン”になることではないか、と筆者は信じる。

せら・みつひろ 1959年、福岡県出身。中央大学文学部フランス語文学文化専攻卒。時事通信社を退職後、集英社フリー編集者を経て、99年に独立し現在に至る。現場第一主義でフィリピン革命や天安門事件、湾岸戦争などをはじめとして世界の紛争地を回り、ルポを発表する。著書に『世界のPKO部隊』(三修社、共著)、『坂井三郎の零戦操縦(増補版)』(並木書房)など多数。