棚橋弘至(新日本プロレス所属プロレスラー)


学生プロレスは「俺の原風景」


 プロレスを好きになったのは高校生の頃。深夜に地上波で放送されているプロレス中継を弟と一緒に観るようになったのがきっかけです。
撮影
(瀧誠四郎撮影)

 そのころ一番印象に残っているのが、全日本プロレスの小橋健太(当時)VS米国人レスラー、スティーブ・ウィリアムスの試合(1994年9月3日、日本武道館)です。ウィリアムスは「殺人バックドロップ」という強烈な必殺技があるのですが、それを何発くらっても小橋さんは立ち上がるんです。ファンの一人として、「ああ、もうこの技をくらったらダメだな…」ってイメージしながら観ていたんですけど、それを返した時のカタルシス。うわっ、プロレスラーっていうのは俺たちの想像を軽く超えるんだって、鳥肌が立ちました。

 僕は高校では野球をやっていたのですが、あまり上手くもないし、自分に自信が持てないでいた。プロレスについて調べているうちに、毎試合ケロッとした顔でリングに上がっているレスラーたちが、実は年間130試合以上こなしていることを知り、精神的にも、肉体的にも超人的なレスラーに、強い憧れを抱くようになっていった。僕もプロレスラーになったら、自分に自信が持てるんじゃないか。そうぼんやり考えることもありました。



 プロ野球選手にはなれないことは分かっていたので、最初はプロスポーツを取材する記者を目指し、立命館大学の法学部に進学しました。それでも、プロレスへの道を諦められなかった僕は、入学後すぐにプロレス同好会の門を叩きました。プロレス同好会は、文字通りプロレス好きの集まりです。仲間とはいつもプロレスの話をしたり、試合を観に行ったりしていたのですが、僕らが実際にプロレスをやるのは年に一回の学園祭だけ。

 晴れの舞台である学園祭でのリングでは、ひょろひょろで貧弱な学生が必死に頑張る姿をアピールしたり、「いま、この選手は攻めてますけど、実は単位はとれてません。留年が決まりました!」とかいう実況解説があったりして、いわゆる「学生プロレス」ならではの世界観を楽しんでいました。

 それでも初めてリングに立った時は、ただひたすら嬉しかったし、楽しかった。だから、学生プロレスは僕にとっての原風景なんです。プロレスって、辛さとか怖さとか、どこか暗い面もあると思うのですが、僕にとってのプロレスは、まず楽しいことっていうのが根っこにある。思えば、学生プロレスの経験は良い方向に働いていると思いますね。

「この筋肉は両親の仕送りでできている」


撮影
(瀧誠四郎撮影)
 プロレス同好会での活動と並行し、自主的に筋トレとアマチュアレスリングに励んだ結果、大学入学前に65キロだった体重は、わずか1年で80キロまで増えました。もしかしたらプロレスラーになれるんじゃないか。その思いは、肉体の変化とともに大きくなり、本格的にプロレスラーを目指すようになりました。

 大学二年の時、初めて新日本プロレスの入門テストを受けたのですが、その年は二回受けて二回とも不合格。それでも三年の時には受かりました。すぐに大学を辞めて入門するつもりだったのですが、大先輩である長州力さんに「ちゃんと大学を卒業してから来い!」と言われてしまって…。なんか拍子抜けしたのと同時に、単位がギリギリだったこともあり、あと一年で卒業できるだろうかと急に不安になりました。卒業までの残り一年で58単位をとらなければならないのに、履修登録の上限は60単位。この一年間はすべて授業に出席し、必死に勉強して、なんとか卒業することができました。

 卒業時、体重はすでに90キロになっていました。体は日々つくらなければならないので、とにかく食べて、プロテインも買わないといけない。親からは毎月仕送りをしてもらっていたのですが、大体二週間くらいで食い尽くしてしまう。学食に行けば、定食と丼とツナ缶とバナナ、みたいな感じで一食千円くらい食べていました。アルバイトもしていましたが、実家に電話してお金がなくなったと言うと、追加で母親が仕送りをしてくれて。そう、僕の筋肉は両親の仕送りでできているんです(笑)。

 両親は、いつもやりたいようにやらせてくれて、慈しんで育ててくれた。プロレスラーになることについても一切、反対しませんでした。卒業式の次の日、東京行きの新幹線に乗り込む時、父親は「どうせやるなら日本一になって来い」と声をかけてくれた。この言葉はその後、いろんな場面で僕の背中を押してくれました。
中西学にSTF を見舞う蝶野正洋(左)、後ろは武藤敬司、右端はスティング 大阪府立体育会館 1997年12月8日(撮影: 榎本雅弘)
中西学にSTF を見舞う蝶野正洋(左)、後ろは武藤敬司、右端はスティング 大阪府立体育会館 1997年12月8日(榎本雅弘撮影)   

 新日本プロレスは1972年、当時トップレスラーだったアントニオ猪木さんが旗揚げしたプロレス団体です。僕が99年に入団した当時は、武藤敬司さん、蝶野正洋さん、橋本真也さんという3人のレスラーが「闘魂三銃士」と称され、人気を博していました。所属レスラーは、レスリングや柔道、ラグビーなどのスポーツで輝かしい成績を残したエリート揃い。

 現場監督だった長州さんが、大の学生プロレス嫌いだということを知って、自分は学生時代の経歴をひた隠しにしていました。それでも、何の取り柄もなかった僕が猛者を押しのけて活躍できたのは、誰よりも努力して努力を苦にしなかったことと、誰よりも志が高かったこと、そして他のエリートと違って、ちやほやされず決して驕らなかった、ということもあったと思います。練習生時代は体重が減るのが普通ですが、僕はサプリメントなどをうまくとり入れて、デビューまでの半年で12キロ増やすことができました。

 新日本プロレスは、体重100キロ未満の「ジュニアヘビー級」、それ以上の「ヘビー級」の二階級制です。身長181センチ、レスラーとしては決して体が大きくはない僕がヘビー級の道を選んだ理由は、僕と体格が変わらない藤波辰爾さんが、ビッグバン・ベイダーら超重量級選手にひるむことなく立ち向かった姿に、プロレスの一番の魅力を感じていたからです。言うなれば、「小よく大を制す」ですね。そして、団体のトップに立つには、ヘビー級にならなきゃいけない、というこだわりもありました。

 僕がプロレスラーとして大きな体を目指すのには理由があります。それは、トップ選手というのは、常にプロレスというジャンルの外を見て、ジャンルを超えていかなければならない存在だと思っているからです。まったくプロレスに興味がない人の目に映った時、プロレスのトップ選手がどんな体をしているのか、どんな人物なんだ、というところをしっかり見せなければならない。だからこそ、僕はもっと大きくなることを目指して日夜トレーニングに明け暮れています。



新日本プロレスに対する恩


 
鈴木健想と戦う棚橋弘至 後楽園ホール 2002年9月17日
 (撮影:荒木孝雄)
鈴木健想と戦う棚橋弘至 後楽園ホール 
2002年9月17日 (荒木孝雄撮影) 
 新日本プロレスは2000年代に入ってから、主力選手が次々と退団し、観客も減るなど、苦しい時代が続きました。総合格闘技なども台頭し、競争相手が増えたのに、旧態依然で進化していなかった。当時の新日本プロレスは、まさに自滅の道を進んでいたんです。

 かくいう僕自身も、02年11月28日に交際中の女性とトラブルになり、刃物で刺される事件に巻き込まれました。こんなスキャンダルがあっても、新日本プロレスは僕にレスラーとしての道を残してくれた。新日本にはすごく恩義を感じています。

 自分で言うのもなんですが、他の所属レスラーと比べても、僕の新日本に対する恩は桁が違うんです。普通で終わる人生が普通で終わらなくなったと思いましたし、リングの上でも言いましたが、僕が背負った業なので全部背負って生きていく。そして、新日本プロレスも僕が背負う。事件を通して誓ったこの決意は、今もずっと変わりません。

 事件後、メキシコ遠征で出会ったのが、メキシコのプロレス、ルチャ・リブレ。ルチャは国技であり、会場には小さな子供から、女性、おじいちゃん、おばあちゃん、年齢性別関係なく、みんながプロレスを楽しんでいて、日本もこうだったらいいなと心底思った。かつて日本でも毎週金曜夜8時に全国ネットのプロレス中継があり、お茶の間でプロレスを楽しむ時代がありました。大人が夢中になっているものは、子供も興味を示すものだし、家族みんなが楽しんでいた。

 それが、放送が深夜時間帯に移り、プロレス好きな人たちだけが観る状況に変わっていった。子供の目に触れることなく、女性ファンも遠ざかっていく。プロレスを取り巻く状況はどんどん悪くなり、プロレスは怖いとか、痛そうとか、負のイメージばかりが広がっていった。まず、何から変えていこうかと考えたとき、真っ先にプロレスのイメージをぶっ壊さなければならないと思った。

 猪木さんが提唱した強さを追求する「ストロングスタイル」とは一線を画し、子供や女性も楽しめるプロレスを目指して、現代風のファッションや爽やかさだったり、アスリート的な肉体だったり、従来のプロレスを知らない多くの人に向けて発信し続けました。とはいえ、これまで培ってきた新日本プロレスの伝統との闘いでもあったので、ファンのアレルギー反応は凄まじかったです。試合中のブーイングも多く、「棚橋は新日らしくない」とか「チャラい」とか。まあ、僕は割とケロッとしていた方なので、自分を貫き通しましたけど。そんな逆風のような状況の中で、従来のプロレスの高い壁をぶっ壊して、誰でも観に来てもらえるような状況をつくっていくのに必死でした。最近はそういった苦労も少なくなりましたが、これからもずっと継続していきたいと思っています。

 こうして振り返ってみると、新日本は低迷の時代もありましたが、テレビ朝日が地上波放送を続けてくれ、2005年からユークスさん、2012年からはブシロードさんが親会社になり支えてくれて、スターが生まれる状況をキープできたのは、ある意味ラッキーでした。地道なファンサービスや広告、プロモーションなどの戦略が功を奏して、2013年には全国各地で満員札止めとなり、新日本はようやく長い低迷から脱することができました。会場を訪れる女性や子供もどんどん増えています。