童門冬二(作家)

『歴史街道』2015年9月号「総力特集:碧蹄館の真実」総論》

漢城を出て、城外で雌雄を決すべし!


「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。雌雄を決せんに如しかず」
そんな立花宗茂の言葉に即座に賛意を示したのが、老練なる重鎮・小早川隆景であった。文禄2年(1593)1月下旬、攻め来る明軍を前に、漢城に集結した日本軍諸将は選択を迫られていた。籠城か、釜山まで後退か、それとも…。この時、迎撃に向けて男たちの心を一つにしたものとは、何であったのか。

籠城か、後退か、迎撃か


 「漢城の守りを固めて籠城するか、釜山まで後退して内地からの援軍を待つか、それとも打って出て、明軍を迎え撃つか…」

 宇喜多秀家、小早川隆景、立花宗茂、黒田長政、加藤光泰、さらに石田三成、大谷吉継、増田長盛らの奉行衆も加わった軍評定で、諸将の意見は割れました。文禄2年(1593)1月下旬(一説に25日)、漢城(現在のソウル)においてのことです。

 天下統一後、明国征服を企図する豊臣秀吉は、李氏朝鮮に対し服属と明遠征の案内役を求めます。そして朝鮮がこれを拒んだことから、文禄元年(1592)4月、一番隊から九番隊まで、15万余りの軍勢で釜山に攻め込みました。いわゆる朝鮮出兵の文禄の役です。
朝鮮出兵の拠点となった名護屋城跡。前方には玄界灘が広がる=佐賀県唐津市
 日本軍は勝利を重ねつつ北上、5月3日には首都漢城が落ち、朝鮮国王宣祖は逃亡。6月15日には小西行長らが平壌を制圧しました。しかし、朝鮮国王の要請で明の援軍が派遣され、7月16日、平壌の奪還を図る祖承訓率いる5000が急襲します。平壌を守る小西らはこれを大いに破り、撃退しますが、主敵である明の国土にまだ一歩も足を踏み入れぬうちに、明軍が早くも駆けつけてきたことは、日本軍に少なからぬ衝撃を与えました。

 日本軍諸将は評定を開き、年内の進撃はとりあえず平壌までとし、軍監の黒田官兵衛は小西に、「平壌から後退し、明軍に備えて漢城の北方に堅固な砦を築くべき」と勧めます。しかし、秀吉の意向に反して明との講和を進めたい小西はこれに従わず、平壌に戻り、明と50日間の休戦協定を締結しました。ところがこれは、明が態勢を整えるための方便でした。翌文禄2年1月6日、講和交渉をよそに李如松率いる4万余りの精兵が朝鮮軍とともに平壌を襲い、小西らは大敗。辛うじて黒田長政の拠る龍泉山城に逃げ込んだのです。

 明軍の反攻に、平壌と漢城間の諸城に詰めていた日本軍諸将はすべて漢城に集結。一方、勢いに乗る李如松は平壌から開城へと進軍し、自信満々で漢城攻略を窺いました。冒頭の「籠城か、後退か、迎撃か」の軍評定は、そんな緊迫した状況下で行なわれていたのです。

 石田・大谷・増田ら奉行衆が籠城策を勧める中、城外での迎撃を決然と主張したのが立花宗茂、小早川隆景らでした。

 「(宗茂は)合戦は吾願ふところなり、我まず先駆せむといふ、小早川左衛門佐隆景も、尤も同心して、先陣せむといふ、爰に於て諸将異義に及ばず」(『加藤光泰貞泰軍功記』)。

 「今敵の多数を聞き一戦を交へずして退かば我国の恥辱を奈何せんや。夫れ城に嬰りて守らば大兵合圍援路四絶焉んぞ久を支えん。兵を城外に出し雌雄を決せんに如かずと。隆景大に之を賛し群議遂に決す。又隆景の推挙により宗茂をして先鋒たらしむ」(『大戦記』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。

 ここに、漢城における軍評定は、城外で明軍を迎撃する作戦に決するのです。

日本武士の意識と、立花を推す小早川


 籠城や後退の意見も出る中、迎撃で軍議がまとまったのはなぜなのか。1つに「大兵合圍援路四絶」と『大戦記』にあるように、明の大軍に漢城が包囲されれば補給が断たれ、兵粮攻めされる恐れが高いという判断でしょう。孤立する日本軍としては、避けたいところです。しかし、より大きな理由として私が考えるのは、同書にある「我国の恥辱を奈何せんや」という部分です。このまま敵に後ろを見せては「日本国の恥」、という気持ちが諸将に芽生ていたのではないでしょうか。

 そもそも日本軍は、豊臣秀吉からそれぞれの家の所領を安堵された、いわば「縦割り」の意識を持つ領主たちの集まりでした。ところが海外に出て、明・朝鮮軍を相手に窮地に立たされた時、個々の家の名誉より、また豊臣家への忠誠よりもっと普遍的なもの、いわば「横」方向へ意識が広がったと思うのです。つまり「自分たちは日本国の武士である」と。そして危機にあって、明の大軍に立ち向かうべきという宗茂や隆景の果敢な主張が、他の武将たちに「異国の兵に嘲られるような恥ずかしい戦を、日本武士がすべきではない」という意識を呼び起こさせたのでしょう。籠城を唱えていた石田三成らも迎撃に頷いたのはこのためで、日本軍にそれまでなかった団結力を生み出す源になったと想像します。

 また宗茂や隆景らは、迎撃策をやみくもに主張したわけではありません。宗茂はすでに、李如松の明軍と干戈を交えていました。

 平壌陥落の報せに宗茂は1月8日(10日とも)、弟の高橋統増とともに3千の兵で平壌へ向かい、途中、敗残の小西勢とすれ違います。小西は「敵の大軍がすぐそこまで迫っている」と宗茂に告げて去り、それを聞いた統増が「小西勢を引き留めて、ともに敵にあたるべきでは」と問うと、宗茂は笑って「敗戦の輩は役に立たぬ」と応じました。そして兵を5隊に分けて潜ませると、ほどなく7、8千の敵が数を恃んで押し寄せます。宗茂は敵を十分に引き付けて、潜ませていた軍勢に突如、鯨波を上げて三方から打ちかからせると、敵は大いに慌て、一支えもできずに潰走。立花勢は敵を千人も討ち取ったといわれます(『立齋奮闘記』〈柳川藩叢書第一集所収〉)。龍泉の戦いと呼ばれるものでした。この戦いで宗茂は、明軍の力量や武器、戦法、士気の高さなどを相当正確につかんだことでしょう。さらに宗茂は前年7月の、祖祥訓率いる明軍を撃退した平壌防衛戦でも活躍していますから、宗茂の迎撃の主張は、彼なりの十分な勝算があってのことと考えられるのです。

小早川隆景木像 (大阪城天守閣蔵)
 その宗茂を先鋒に推したのが、小早川隆景でした。隆景は文禄の役で六番隊1万5千人余りを率い、宗茂は与力の一人です。当時、27歳の宗茂に対し、隆景は61歳。親子ほどの年齢差で、実際、永禄12年(1569)の多々良浜の戦いに父・毛利元就とともに出陣した隆景は、大友宗麟の部将であった宗茂の義父・立花道雪と戦っています。そして道雪の巧みな戦術で、数で優る毛利軍が一転、敗北する体験をしました。そんな敵ながら天晴れな名将道雪が見込んで婿養子にしたという宗茂を、隆景も深く信頼していたのです。

 当時、隆景は筑前・筑後に三十七万石を与えられ、いわば九州の押さえとしての役割を秀吉から期待されていました。一方で隆景は、兄・吉川元春とともに毛利宗家を補佐する「毛利の両川」と謳われ、「此人、常に危ふき戦ひを慎み、謀を以て敵を屈せしむる手段を宗とし給ふ」(『陰徳太平記』)智将として知られています。そんな隆景ですから、宗茂を「道雪の婿養子」というだけで評価していたわけではないでしょう。常に家臣らと苦楽をともにする宗茂が家臣たちから慕われ、主従の結束が極めて強く、だからこそ数々の合戦で殊勲をあげている事実を見抜いていたはずです。

 「小勢ではあるが、立花殿こそ先手を仕っても決して誤つことのない御仁である。立花が3千は余人の1万にもおとるまじけれ」

 老練な重鎮・隆景の推薦に、漢城に集結した諸将は異論なく、宗茂を先鋒に決しました。