近衛龍春(作家)

『歴史街道』2014年5月号[特集]より》

あえて追撃せず!大返しの先を読んでの決断 


(すまぬ……。されど、これで毛利は救われる)
羽柴軍に水攻めを受けていた備中高松城主・清水宗治が自刃を受け入れたと聞き、隆景は心の中で呟いた。ところが――胸を撫で下ろすのも束の間、信長横死の報が届く。退却する羽柴軍を追撃すべしと怒号する兄元春。一方、隆景の眼には、後の天下が見えていた。

備中高松城、水攻め


 日差山から北の眼下を眺めると一里四方にも及ぶ巨大な湖ができており、その中心にぽつんと高松城の一部が覗けていた。

 (彼奴、なにゆえ下知を聞かぬのじゃ)

 顔を顰め、小早川隆景は肚裡で吐き捨てた。「此人、常に危うき戦ひを慎み、謀を以て敵を屈せしむる手段を宗とし給ふ」と『陰徳太平記』に記されている隆景は、毛利元就の三男として誕生し、9歳の時に竹原小早川家の養子となることが決まり、12歳の時に同家を継承。18歳の時に本家の沼田小早川家を乗っ取り、当主となった。天文16年(1547)の備後・神辺城攻めで初陣を果たして諸戦場で活躍。兄の吉川元春ともども毛利の「両川」として、毛利本家の輝元を支えている。

 天下統一を目前にした織田信長の中国方面司令官として、羽柴秀吉が2万余の兵を進めて諸城を攻略。清水宗治が守る備中の高松城を水攻めにしたのは天正10年(1582)5月のことであった。

高松城址公園資料館内にある備中高松城水攻めのジオラマ
 秀吉は足守川を塞き止め、洪水避けに築かれていた堤防に普請を加えて高松城を人工湖に沈め、日増しに水位は上昇していた。

 (まさか、あの小者が我らを脅かすとはの)

 永禄12年(1569)頃、都で奉行をしていた秀吉が毛利氏に対する申次衆にも抜擢され、隆景が書でのやりとりを開始した時、秀吉はまだ木下藤吉郎と名乗っていた。

 その秀吉が高松城を水攻めという驚愕の作戦を執っていることに隆景は愕然とした。

 清水宗治からの求めを受け、救援に駆けつけた毛利軍は足守川の西、高松城から半里ほど西の岩崎山に吉川勢、同山から10町ほど南西の日差山に小早川勢、同城から4里ほど南西の猿掛城に毛利家当主の輝元が備えた。総勢1万5千の軍勢である。

「気持ちは分かる、されど…」


 毛利軍は羽柴軍を威嚇するが、秀吉らは挑発に乗らずに水攻めを続行。なにもせずとも水嵩は増すばかりで籠城兵は餓死、溺死を待つといった様相である。打開策がないので、隆景は清水宗治に降伏を申し出て西に退くように下知したが、宗治は「武士の意地」と撥ね付け、籠城を続けていた。

 清水宗治にすれば、命を賭けて気概を示すので、援軍にきた毛利軍も覇気を示して羽柴軍を追い払ってくれ、という気持ちであろう。

 (気持ちは、痛いほどに分かる。されど……。毛利の行く末を考えると、迷惑な話じゃ)

 隆景の本音である。近く、信長が大軍を率いて参陣するという噂を聞いていた。信長は3ヵ月前、一度も鎧に袖を通すこともなく、戦国最強と謳われた武田家を滅ぼしている。

 羽柴軍だけでも手に余るのに、敵の総大将と対峙すれば、毛利家の命運に直結する。

 既に信長の呼び掛けに応じて豊後の大友宗麟が兵を挙げ、背後を脅かされている。毛利軍は早く帰陣して備えたいところである。

 膠着状態が続く中の6月3日晩、秀吉から新たな提案が提示された。これまで、秀吉は毛利家に6カ国の割譲を要求していた(諸説あり)。これを備中、美作、伯耆の3カ国に譲歩するが、清水宗治には切腹させることで、一旦和睦しようということであった。

 隆景は5ヵ国で事を収めようと交渉を行なわせていた。これは『小早川家文書』や『毛利家文書』で確認できる。それだけに戸惑った。

 「妙じゃの。これまで強硬に6カ国の割譲を主張していたのに、なにゆえ有利な羽柴が折れる? 羽柴の陣になにかあったのか?」

 隆景は秀吉の身辺を探るように家臣に命じたが、簡単に近づけるはずもなかった。

 「清水殿は切腹に応じたようにございます」

 奉行筆頭の井上春忠が報せた。

 「なんと!?」

 驚きが半分、もう半分は安堵であった。

 「恵瓊殿が説いたようにございます」

 安国寺恵瓊は安芸の守護職・武田信重の息子として生まれ、父が毛利元就に攻められて自刃したのちは出家し、安国寺や都の東福寺で修行し、毛利家の外交僧となっていた。

 「鼻薬でも嗅がされたか」

 以前より、恵瓊は隆景の指示で何度も上洛し、秀吉と交渉を行なっていた。折衝の最中、恵瓊は信長と秀吉を、「信長の代は3年や5年は持ちましょう。来年あたりは公家(殿上人)にも成るかもしれません。されど、高転びにて仰向けに転ぶと見受けられます。なお、藤吉郎は、さりとてはの(なかなか見所のある)者です」と評している。

 いずれにしても清水宗治が応じた以上、説得して長対峙を続ける必要はなくなった。

 6月4日巳刻(午前10時頃)、清水宗治は船上で自刃して46歳の生涯を閉じた。籠城していた隆景の家臣の末近信賀、清水田右衛門、国府市正も別の船の上で後を追った。

 (すまぬ……。されど、これで毛利は救われる)

 罪悪感の中、隆景は胸を撫で下ろした。

 一世一代の決断


 翌5日、恵瓊から毛利輝元に、事後処理として清水宗治自刃の報せが届けられた。

 輝元、元春、隆景3氏に対して、秀吉は約束は必ず守りますという3カ条からなる血判起請文を発し、撤退準備を始めさせた。

 秀吉は堤防を破壊して帰途に就いた。俗に言う中国大返しの始まりである。

 人工湖の水は濁流と化して流れた。激流は羽柴軍と毛利軍を見事に分断したことになる。
 羽柴軍が退きにかかってすぐ、紀伊の雑賀衆から猿掛城に本能寺の変の報せが届けられた。この時、元春と隆景は同城におり、今後の対応を相談しようとしていた矢先のことであった。

 「騙しおって。即座に追い討ちをかけよ!」

 猛将で知られる元春は怒号した。ほかの毛利家の重臣も同調する。

 (羽柴め、やりおるの。やはり、さりとてはの者か、と感心している場合ではないの)

 隆景も腹立たしい。とはいえ、元春には断乎、同意できない。

 「既に羽柴と起請文を交わした以上、これを破棄することはできぬ」

 「筑前(秀吉)めは最初から我らを騙したのじゃ。起請文など、ただの紙切れと同じじゃ」

 唾を飛ばして元春は叫ぶ。

 「されど、この現状をいかがなされる? 羽柴は足守川を暴れ川に変えた。兵の移動は困難でござる。海もまた怪しい限り」

 秀吉は村上水軍の来島通昌を調略しており、海から円滑に追撃できなくなっていた。

 「山を迂回すればよい」

 「主の仇討ちをせんとする兵は強い。これを追えば、必死に戦う。すぐに大友と戦わねばならぬ我らが、無駄に兵を損じることもござるまい。それに彼奴らは一年中戦ができる」

 毛利家は織田家のように兵農分離をしていないので、農繁期に出陣できなかった。

 「そちは、この屈辱、なんとも思わぬのか」

 「実を取りましょう。追えば相応の打撃を与えられるが、羽柴を討てねば羽柴は憎しみの塊となる。さして我らに恨みを持たぬ信長にすら、ここまで追い詰められたのでござる。憎しみを持った羽柴が再び兵を進めてくれば、こたびの比ではござらぬ。明智が信長を討っても、主殺しが長く栄えた例はござらぬ。見事に我らを騙して、仇討ちに戻った羽柴らが勝利するに違いなし」

 隆景は一息吐いて続けた。

 「ここは恩を売ってやりましょう。上方が纏まるには数年を要するはず。その間、我らは失った地を取り戻し、内を固めるが先決。亡き父上(元就)も上方に望みを持つなと申されたではござらぬか」

 憤怒する元春を、隆景は柔らかく宥め、渋々納得させた。さらに隆景は毛利家の旗差物まで貸してやった。お人好しな行動であるが、隆景の説得で毛利軍が追撃しなかったことで秀吉は山崎の合戦で明智軍を破り、天下取りの契機を掴むことができた。

 のちに秀吉は隆景に恩義を感じ、輝元と隆景は年寄(大老)に席を列ねることになる。

 毛利は追撃しなかったことで消耗戦を避けて乱世を生き延び、幕末の雄藩として明治維新を達成することに繋がった。

このえ・たつはる 作家。昭和39年(1964)、埼玉県生まれ。フリーライターを経て、『時空の覇王』でデビュー。著書に、『毛利は残った』(毎日新聞社)『大いなる謎 関ヶ原合戦』(PHP文庫)など多数。