勇気と義に厚く

 立花宗茂の勇気と義に厚く、男らしい行動は、並の豪傑大名とは違っている。

 文禄の役で朝鮮に出兵したときの宗茂の活躍はよく知られているが、太閤秀吉が死んだという報せが入ると、諸将は直ちに撤兵して帰国の途につこうとした。ところが、先へ進み過ぎた小西行長が順天というところに数百の兵とともに取り残されることになった。

 小西行長は奸(ねいかん)な気性で諸将に嫌われていたせいもあり、見捨てて帰国する議に決まりかけた。このとき宗茂一人、異を唱えた。

 「行長は将星(しょうせい)の一人である。見捨てれば兵は降伏し、行長は虜囚(りょしゅう)となろう。これを見捨てることは、日本の武士として最も愧(は)ずべきことだ。拙者は行長に何の恩怨(おんえん)もないが、武士として見殺しには出来ぬ。順天に進み、共に撤退する。衆寡敵せず生死を賭くるも又止むを得ない。これは行長のためではない、わが日本国のために敢行する」と言い放った。

 この壮烈な言葉に島津義弘と寺沢広高が同意し、宗茂は撤退を急ぐよう急報し助けの軍を出した。明・韓連合の大軍が海陸から分断作戦に出たが、激戦の末、漸く行長と将兵を救い出したのである。

 宗茂の用兵の妙は諸葛孔明(しょかつこうめい)を思わせるものがあると多くの史家が激賞するが、かれの真骨頂は戦さ巧者の武将にあるのではなく、その人格の高潔さだ。

 有名な碧蹄館(へきていかん)の戦いも明の大軍を前にして消極的な篭城戦に決まりかけたのを宗茂が力説して攻撃に転じ大奮戦して打ち破った。この報を安辺というところに 滞陣していた加藤清正が聞いて、

 「先陣は立花宗茂であろう」

 といった。正にその通りであった。

 だが、外国での戦いなので当時詳細が伝わらなかったのも事実である。

 秀吉の側近である石田三成が軍目付として戦地にやって来て、宗茂にいった。「貴殿が度々の戦さに大功をたて、殊に碧蹄館の先陣は抜群のお手柄と存ずる。然れども事実は必ずしも上聞(じょうぶん)に達せず、総指揮の宇喜多秀家の手柄になっております。如何であろう、私にお頼みあれば、実情を殿下のお耳に入れましょう」。目付なら黙って実情を上奏すればいいのに、わざわざ自分に頼め、というのは、賄賂しだい、という誘いである。

 汚い男だ。宗茂はこういう欲深の卑劣漢が最も嫌いだ。

 「これは面白いお奨めだ。戦さの次第を見聞きし、ありようを殿下に報告するのが貴殿のお役目なのに、特にお願いしなければ、事実が伝わらぬとは、呆れたことだ。苞(ほうしょ)(賄賂)の多寡で勲功にありつくなど拙者の好みではない。たとえいかようなことになろうとも、武士は武運しだい。御申し出の儀、断り申す」

 こういう廉白な武将にかかっては、石田三成はひたすら赤面するしかない。

 「只今の話は…ま、お聞き流し下され」

 と詫びて倉皇(そうこう)と席を立ったという。

 こうした不正を憎み巧利を除ける精神も、宗茂の天才的な戦術家として頭脳と死を恐れぬ武辺の勁(つよ)さからくるものであろう。寡勢よく敵の大勢を打ち負かした宗茂なればこそ、加藤清正でも前田利長でも島津義弘でも誘い水を向けたのだ。世にあるとき力の限り働いていれば浪人しても必ず浮かぶ瀬があるのである。

将、軍ニ在ラバ


 文禄元年の事変なので文禄の役ともいうが、秀吉の命令で朝鮮に渡海した日本軍の将は宇喜多秀家であった。

 上陸するや近辺の砦をあっさり屠った。さて、これから進軍は如何、と迷ったのだ。秀家は太閤秀吉の意向を聴かずに進発すれば逆鱗(げきりん)に触れることを怖れた。

 賛否両論にわかれたが秀吉は漸く肥前名護屋城に着いたころだ。返事を待っていては時間がかかる。二十三歳の立花宗茂は諸将の意見を黙って聞いていたので小早川隆景が、宗茂の意見をもとめた。

 「されば、不肖、考えまするに、異国まではるばる参っての足踏みこそ 面妖(めんよう)に存ずる。それがし嘗(かつ)て聞くに“将、軍ニ在ラバ君命受ケザル所有リ”と。今、渡海して出兵あるに、一々、内地の殿下にお伺いを立てていては、戦機を失ってしまいます。敵の王城は未だ警備整わず、兵力も少しとか。直ちに長駆して王城を奪取すべきと存じます」

 堂々と進言した。

 「成程。道理だ。だが、軍備が整わぬとどうしてわかる?」

 「もしも王城が堅固ならば、釜山・東莱斯(とうらいし)がかく容易に潰(つい)えるはずがない。この様子から見て、王城また然り。虜囚(りょしゅう)の言では、途中 艱険(かんけん)の要所あり、猶予を与えれば要害を築き、また明国からの援兵も来り会して困難になると思われます。一時も早く決断して進撃こそ肝要と存じます」

 機先を制して先手先手と猛進撃こそ勝利だと力説したので、隆景も納得、進撃を命じたので、数日で京城に達して攻め取った。

 碧蹄館(へきていかん)の戦いでも、敵の大軍にひるんで消極的な防戦に傾くのを、宗茂が鼓舞して攻撃に攻撃をかけ、常に宗茂は先陣を切って縦横に奮戦している。

 宗茂が生涯を貫いて守ったのは“道に背かぬ”ことであった。したがってかれ自身の生きざまも、すべて理にかない、道に従っている。

立花宗茂は関ケ原の戦いで西軍につき改易、浪人となった。のちに本多忠勝の推挙もあり、家康によって大名に返り咲き、旧領柳川に復帰することになる。宗茂が、亡き妻・誾千代のため創建した良清寺=福岡県柳川市西魚屋町(渡部裕明撮影)
 大阪夏の陣のとき、家康は秀忠の攻城に宗茂の意見を徴するよう本多正信に命じて招かせている。

 「秀忠は若年であり相談相手が要る。立花は心安くすべきではないが、軍功者で信義のある者じゃ。相談相手になるよう伝えよ」

 宗茂は正信より聞いて伏見城に伺候すると、秀忠は、「このたびの戦さに、太閤恩顧の福島・加藤・毛利・浅野など、如何に出てくるか。その方、福島や加藤は年頃旧知なれば、心情もわかっているであろう」

 と、聞いた。かれらの向背が勝敗を左右する。

 宗茂は答えた。

 「加藤・福島は太閤お取り立ての者なれども、太閤殿下の所行(しょぎょう)仕打ちに許せぬものがござる。かれらの女房を呼びつけるなど人倫に悖(もと)る行いに、かれらも内心、憤りを抱いていました」

 恩怨(おんえん)の関係だけでなく、世の中には、ものの道理があること、それに従って行動する、その順応性で世間が動くことを説いている。

 「太閤殿下の恩がござったゆえ関ヶ原合戦では秀頼公のために身命を賭し、わが家を潰してしまいました。これ即ち太閤殿下への報恩でございます」

 十三万石を捨てて浪人となった。そのことで義理は果たしたのだ。宗茂の澄明(ちょうめい)な態度は天地に恥じることのない生き方から来ている。

(さおとめ みつぐ)