文祿の役で、隆景の指揮下で行動した立花宗茂は、隆景のことを島津忠恒にこう語っている。

 隆景は絶えず陣中を巡回して、部下の疲労に気を配り、雑兵や人夫にまで親しく声をかけた。行軍のときは他軍が五里行くところを三里で兵を休ませるので、福島正則などは大いに不平だった。

 ところが明の大軍が南下来襲し、諸将が狼狽の色を隠せずにいるのに、隆景は悠然と予期したごとく、休養充分の兵を励まして碧蹄館(へきていかん)で大勝利をおさめた。これによって宗茂も正則も、初めての大軍を迎えるときの準備、心構えを隆景から学んだという。

 隆景は家来の用い方も綿密周到で、部下の持つ一芸一能を見逃さず、器量に応じた使い方をした。部下の諫言も好んで聞き、近臣たちには、つねづね、

 「自分が喜ぶようなことは、身の毒になると思い、自分が嫌だと感じることは、みな薬になると思うようにせよ」

 「世には、主人のために労苦して、かえって憎しみを受けたり、その反対に、私欲を図って愛される者も少なくないから、将たる者はその分別が肝要だ」

 と諭した。

伝毛利元就画像(模本、東大史料編纂所蔵)
 隆景の生涯は、元就の教訓に従って、宗家の毛利を立てることに徹底した。元就の孫・輝元に対してもその姿勢は終生変わることがなかった。輝元が幼少の頃は、隆景の輔育は厳格で、ときには輝元を折檻したこともあったという。

 天正十四年、吉川元春が病死したあとは、隆景が一人で輝元を補佐したが、毛利宗家の主として輝元を立て、小早川はあくまで分家として仕えるという立場を崩さなかった。たとえば輝元がいる座敷の前を通るときでも、隆景はかならず膝をかがめ、手を下に突いてから通り過ぎたという。

 「毛利の臣」という姿勢は、秀吉や外部の者に対しても貫かれた。四国征伐のあと、秀吉から戦功として伊予一国を与えられたときも、隆景は、

 「このたびの恩賞は、いったん輝元に賜り、然るのち、それがしに賜りたし」

 と願い、小早川はあくまで毛利に仕える立場であることを強調している。さらに九州征伐の論功行賞では、筑前一国と筑後、肥前の一部を与えられたが、隆景は秀吉に辞退を申し出ている。

 このときは、毛利の勢力を分散し、将来は九州へ移してしまおうという秀吉の意図を、隆景が見抜いたからだが、直接には、宗家と離れて筑前に住むのは不都合だからで、名誉や私情は別であった。だが秀吉は辞退を許さず、隆景は筑前名島に城を築いて移住するが、新領地の筑前でも隆景は仁政を心掛けた。

 領地が増えれば家臣も増えるわけで、隆景は夜な夜な城を抜け出し、新参の家臣の屋敷辺を巡り歩いて、彼らの暮らしぶりを知るように努めたという。

 (のむら としお)