関東大震災での山本権兵衛(1852~1933年)内閣の対応と比べ、菅直人内閣のなんと劣ることか。東日本大震災の被災地の人々が立ち上がるには、復興の大方針と計画を早く示す必要がある。街や産業をどうよみがえらせるかの青写真なしに、施設や家屋、産業の整備は進まない。

 被災した人々もどこでどのように暮らしを立て直すか決めかねてしまう。しかし菅直人首相(64)や実質的な官房長官の仙谷由人官房副長官(65)、岡田克也民主党幹事長(57)は、復興に向けた与野党結集の態勢を今も構築できないでいる。

野党トップを入れる

 関東大震災での山本内閣の対応は決然としたものだった。

 1923年(大正12年)9月1日昼に起きた関東大震災で、下町を中心に東京には焼け野原が広がった。

 東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の1都6県に被害は及び、死者・行方不明者は10万5千人以上。家屋の全焼38万1千戸、全半壊17万4千で、被災者は実に340万5千人。戦後最大の天災である東日本大震災を上回る。当時の日本の国力を考えれば、どれほど巨大な災厄だったろうか。

 「首相不在」中の震災でもあった。直前の同年8月24日に加藤友三郎首相(1861~1923年)がガンのため在職中に病没し、内田康哉(1865~1936年)外相が首相臨時代理に就いた。同29日に山本権兵衛元首相に組閣の大命降下があり、震災当日は山本はまだ組閣構想中だった。

 翌2日夜、東京・赤坂離宮の「萩の茶屋」で、ロウソクの灯りの下で親任式が行われ、山本内閣は発足した。

 内田職務執行内閣は2日、臨時震災救護事務局を設けるなど救援に懸命だった。山本内閣はこれを引き継ぐとともに、内相の後藤新平(1857~1929年)がその日から復興計画づくりに着手した。

 関東大震災から18日後の23年9月19日、山本首相が総裁で、委員は国務大臣待遇を受ける「帝都復興審議会」を設けた。後藤ら閣僚、渋沢栄一(1840~1931年)ら財界人、伊東巳代治(1857~1934年)ら枢密顧問官に加え、野党・立憲政友会総裁の高橋是清(1854~1936年)や野党・憲政会総裁の加藤高明(1860~1926年)、それに貴族院の最大会派「研究会」の幹部らが加わっている。

 政党内閣ではなかった山本内閣は、議会勢力を議論の土俵に乗せたのだ。

ようやく有識者会議

 震災から26日後の同月27日には、後藤が総裁の「帝都復興院」が設立された。これに先立ち、震災からわずか1週間後の同月8日には、後藤の命を受けた内務省都市計画局が復興計画の第1案をまとめている。

 同月12日の帝都復興の詔書は、東京を単に復旧するのではなく、復興する方針を打ち出した。政府は、大規模な区画整理や拡幅の大きい道路の建設などで災害に強い近代都市に生まれ変わらせようとしたのだ。

 一方、菅首相は4月11日をめどに有識者や地元自治体の代表らでつくる「復興構想会議」(議長・五百旗頭真防衛大学校長(67))をつくる意向だ。東日本大震災から1カ月の節目を意識した設置なのだろう。構想会議は復興策を提言する組織で成果が期待されるが、これだけでは足りないだろう。

 何よりも先に、責任をもって復興計画を実務的に策定する「帝都復興院」や、オールジャパンで構成する「帝都復興審議会」に相当した組織の発足が望まれる。今の衆参両院がねじれ状態である以上、復興計画と復興予算の実現のため、復興に限って与野党が結集する態勢が必要だ。

 今回の「復興構想会議」は「帝都復興審議会」たり得ず、むしろ「帝都復興院」の傘下で有識者や各官庁の幹部で構成した「帝都復興院評議会」に似ている。

 大連立構想は、菅首相の退陣の是非をめぐり、いったん暗礁に乗り上げたようだ。それでも、「帝都復興審議会」のような超党派の組織を作れば協調態勢はとれる。

 大連立は強力な批判勢力が議会から消え失せることを意味する。望ましくはないことだが、大連立をするとしても、中曽根康弘元首相(92)が指摘した期限付きか、一定期間後に衆院解散・総選挙を行う約束を伴っていなければならない。それに欠ける大連立は日本の政治にも復興自体にもマイナスに働くだろう。
(政治部 榊原智)