豊臣家と徳川家が天下の覇権をかけて争った400年前の大坂の陣。最終決戦となった夏の陣での天王寺口の戦いで、徳川家康の本陣に突撃した知将、真田信繁(幸村)に劣らぬ活躍をした武将がいる。父の代から豊臣家への忠誠を貫いてきた毛利勝永。「大坂五人衆」の一人だ。獅子が羊の群れを散らすかのように躍動し、家康本陣への血路を開いたが、最期は豊臣秀頼を介錯して自害した。(川西健士郎)

 毛利といっても、中国地方の雄、毛利元就とは関係ない。勝永の父、森吉成(勝信)は尾張(愛知県西部)の出身で、天下人となった豊臣秀吉の親衛隊「黄母衣衆(きほろしゅう)」を務めた古参の家臣だった。秀吉の九州攻略で武功を挙げて小倉城主となった際、秀吉の提案で森姓を毛利姓に変えたとされる。

 慶長2(1597)~3年の慶長の役(朝鮮出兵)には吉成、勝永の父子で参戦。5年の関ケ原の戦いでは西軍に応じて家康の東軍と対峙し、勝永は前哨戦の伏見城の戦いで活躍した。が、本戦ではまともに戦う機会がないまま東軍に敗れて領地を没収され、やがて土佐の山内一豊に父子とも預けられた。

 「一豊も豊臣恩顧の武将で毛利父子とは相通じるところがあった。最初は加藤清正が父子を預かったが、一豊は自ら申し出て引き取り、それぞれに屋敷を用意して優遇した」。土佐山内家宝物資料館の古賀康士学芸員はそう話す。

 慶長16年、吉成は土佐で客死した。その3年後、大坂冬の陣に出陣する際の勝永と妻のやりとりを、江戸中期の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』はこう記す。

 「命を秀頼公に奉りてんと思へども、われここを忍び出でなば、憂きがうへにもなほ憂き事や御身の上に添ふらん」。大坂に駆けつけたい思いとともに妻ら家族の身の上を案ずる勝永がそう言って涙を流すと、妻は武士の妻が何を恐れることがあろうかと笑い、「はや此(こ)の暁(あかつき)船に乗りて、武名を潔(いさぎよ)くし給へ」と促す-。

 死をも覚悟した妻の言葉に意を固めた勝永は、徳川方につくと偽って土佐を出航したとされる。

 ほとんど無名だった勝永の名を高めた夏の陣・天王寺口の戦いは、慶長20年5月7日正午頃、徳川軍先鋒の猛将・本多忠朝(ただとも)(千葉の大多喜藩主)隊と毛利隊の銃撃戦で激戦の火ぶたが切られた。

大坂冬の陣の陣図屏風(肉筆模写)より「本町橋の夜討ち」(大阪城天守閣所蔵)
大坂冬の陣の陣図屏風(肉筆模写)より「本町橋の夜討ち」(大阪城天守閣所蔵)
 毛利隊は忠朝に続いて信州の名家である小笠原秀政(長野の松本藩主)を相次いで討ち取ると、榊原康勝(群馬の館林藩主)や仙石忠政(長野の小諸藩主)らの第二軍、酒井家次(群馬の高崎藩主)や相馬利胤(福島の相馬中村藩主)らの第三軍を蹴散らし、4千の兵で2万の大勢を壊乱させる。

 「あの兵の引回しが際立っているのは誰か」

 豊臣家との縁が深いため後方に控えて戦闘を眺めていた秀吉の軍師・黒田官兵衛の嫡男、長政(福岡藩主)は、感嘆のあまり、近くにいた加藤嘉明(伊予松山藩主)にそう尋ねたと伝わる。秀頼から賜(たまわ)った錦の陣羽織をまとった勝永の指揮ぶりは、徳川方についた歴戦の武将の目をくぎ付けにしたのだ。

 混乱する徳川方の間隙を縫い、精鋭騎馬隊で家康の本陣を急襲したのが幸村だったが、勝永も本陣を襲い、家康は逃げるしかなかったとされる。

 しかしその後、盛り返した家康の孫、松平忠直(福井藩主)の大軍に圧されて幸村が落命し、敗北は決定的に。それでも勝永は藤堂高虎隊を撃退するなど退却戦でも統制を失わず、大坂城に帰城する。

 翌8日、秀頼を介錯し、後を追って切腹。豊臣家とともに38年間の人生を閉じた。