大坂城を舞台に籠城(ろうじょう)戦が展開された大坂冬の陣。慶長19(1614)年12月、城を包囲する徳川方の蜂須賀至鎮(よししげ)隊に夜襲を仕掛け、成功させた豪傑がいる。豊臣方の塙団右衛門(ばんだんえもん)直之。夜襲の目的は、敵陣に「本夜之大将ハ、塙団右衛門直之也」と記した木札をまいた逸話が残るように、自らの名を天下に売り込むためだった。その甲斐あって、後世の講談や小説で人気を博し、400年の時を経ても「夜討ちの大将」は幾多の武将の中で異彩を放つ。(川西健士郎)

 団右衛門が最初に名を上げたのは大坂の陣の約20年前の朝鮮出兵。後に伊予松山藩主となる「賤ケ岳の七本槍」の一人、加藤嘉明(よしあき)のもとで敵の番船を乗っ取る大功を挙げる。その後、関ケ原の戦いで徳川方についた嘉明隊の鉄砲大将に任じられながら、自ら槍を取って敵中へ一騎駆けをした。

 怒った嘉明から「大将の器にあらず」と酷評されると立腹して出奔。同じく七本槍の一人で安芸広島藩主の福島正則らに仕えるが、嘉明の工作で罷免され、鉄牛(てつぎゅう)と名乗る禅僧となる。

 大坂の陣で分の悪い豊臣方についた理由について、司馬遼太郎の短編小説「言い触らし団右衛門」の主人公、団右衛門は言う。

 「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無(の)うなっても、存分にそろばんが合う」

 団右衛門が仕掛けた「本町橋の夜討ち」。標的の蜂須賀至鎮隊への襲撃隊150人は本町橋を渡り、100人以上の首を取ったとされる。このとき、団右衛門は本町橋の上で仁王立ちになって大声で指示を出し、「大将の器」であることを盛んにアピールした。

 翌年4月29日。夏の陣前哨戦の樫井(現在の大阪府泉佐野市)の合戦では、豊臣方の先鋒隊として和歌山城から北上する徳川方の浅野長晟(ながあきら)隊と対決。味方の岡部大学隊が先行していることを知ると、先鋒を譲るまいと争った末、またも勝手に敵陣へ一騎で走り込んでいったという。

櫻井家に伝わる掛け軸に描かれた塙団右衛門。朝鮮出兵で活躍する姿を描いている(櫻井尚さん提供)
櫻井家に伝わる掛け軸に描かれた塙団右衛門。
朝鮮出兵で活躍する姿を描いている(櫻井尚さん提供)
 歴史館いずみさの(大阪府泉佐野市)の学芸員、広田浩治氏は「勝ち目のないことを知り、斃(たお)れても名が残る先陣の誉れにこだわったのだろう」と推察する。

 敵の軍勢に囲まれながらも馬上で槍を悠然と操り、兵を次々と突き倒していく団右衛門。矢に射られ落馬し、槍で突かれると、よろけながら懐紙を広げ、敵前で辞世の漢詩を書き記したと伝えられる。

 中夏依南方

 留命数既群

 一生皆一夢

 鉄牛五十年

 中夏は都を意味し、その南という表現は大坂の陣の規模の大きさを伝える。留命数既群について、司馬は「数既を数奇に代え『命を留むれば数奇群(ふしあわせおお)し』とでも読めば、豪放な団右衛門の半面には、病的な厭世主義者がひそんでいたことになる」と解釈した。

 団右衛門は当時48歳。ひたすら名を残すという一心で、一夜の夢のような生涯を駆け抜けた。

独眼竜に認められた豪傑


 大坂の陣で敗れた豊臣方の塙団右衛門の子孫は櫻井と名を変え、島根県の奥出雲でたたら製鉄を営んだ。製鉄業は成功、藩主を迎えるほどの名家として発展する。重要文化財に指定された「櫻井家住宅」を守る13代目の子孫、櫻井尚(なお)さん(91)は「団右衛門の活躍と名声が後世の繁栄の礎になった」と語る。

 製鉄を始めたのは団右衛門の長男、直胤(なおたね)だ。大坂の陣の後、安芸広島藩主の福島正則に仕えるが、数年後に正則が転封となり、代わって樫井の合戦で団右衛門と敵対した浅野氏が城主になった。身に危険が及ぶことを恐れ、母方の旧姓をとって櫻井平兵衛直胤と名を変えて浪人に。やがて高野(現在の広島県庄原市)で製鉄業を始めた。

 3代目が奥出雲に移った後、5代目が今の場所に居を構え、地域の製鉄をとりまとめる鉄師頭取役を拝命した。

 櫻井家住宅には奥出雲の自然を取り込んだ日本庭園がある。享和3(1803)年、茶人としても知られる松江藩主、松平治郷(はるさと)を迎えた際に造られた。治郷の正室は仙台伊達藩主の娘。団右衛門と櫻井家も伊達家と深い関係があった。戦国時代屈指のカリスマ、あの「独眼竜」である。

 尚さんは「団右衛門の娘が伊達政宗の側室に迎えられて以来、伊達家との交流が続いた。櫻井家の繁栄はやはり団右衛門を抜きに考えられない」と語る。

 製鉄は第二次大戦後に廃業。現在、櫻井家住宅の隣に建つ歴史資料館で、製鉄で身を起こし、地域の発展に尽力してきた歴史を紹介し、元祖に団右衛門を位置づける。

 「名を売ろうとする姿ばかりが面白く取り上げられてきたが、歴戦の戦国大名にも認められたように高い素質をもち、信望を集めた武将だったのだろう」