石澤靖治(学習院女子大学長)

 2016年米大統領選で民主党大統領候補の本命、あるいは共和党も含めても当初から大本命と言われていた、ヒラリー・クリントン氏への支持がこのところ急速に落ちている。それを象徴するのが、民主党で当初は「泡沫候補」とみられていたバーニー・サンダース氏が、来年2月、最初に米大統領選の党員集会の火ぶたが切られるアイオワ州における米キニピアック大の世論調査で、僅差ながらクリントン氏を抜き去ったというデータが出たことである(9月10日発表、41%対40%)。サンダース氏は「社会主義者」を自称する極めて異例の存在。貧富の格差解消を掲げて一部から熱い支持を集めていたが、米大統領選の行方を占う最初の重要な州でのこの結果は、彼の勢い以上に、むしろクリントン氏の失速を強く印象付けた。

 一般的に指摘されている失速の理由は、彼女の人間としての信用性に改めて疑問が投げかけられたことである。それはクリントン氏がオバマ政権で国務長官を務めていた際に、個人のメールアカウントを使って、国務省とは無関係のサーバーを通じて重要事項をメールでやり取りをしていたということに端を発する。彼女の国務長官時代には、リビアの米領事館が襲撃されて大使が殺害されるなどの事件もあり、こうした私的なメールで業務を行ったことが、倫理的にも安全保障的にも問題であり、指導者としての資質に問題があるとされたのである。

 それに対してクリントン氏は、自宅でやりとりしたメールを公開するなどして事態の沈静化に努めた。しかしその後、このメールに関する件で、彼女の発言とその後に発覚した事実との間に齟齬が生じるなど、彼女はこの問題で守勢に立たされ続けている。そのため最近はこの件でテレビのインタビューに答えて、自分の行為を率直に謝罪するなどして、完全に危機管理モードに入っている。

ヒラリー・クリントン前国務長官
 だが、この件はクリントン氏の失速のきっかけに過ぎないように思える。というのは、彼女が常に抱える潜在的だが大きな弱みの一つが、まさにこの人間としての信用だったからである。それはメール問題を指摘された自身の国務長官時代の行為に発するものというよりは、1990年代に第42代米大統領に就任した夫ビル・クリントン氏のファーストレディとしてホワイトハウス入りした時に国民に与えた印象からである。

 その際にビル・クリントン氏がアーカンソー州知事時代に行った土地開発と取引に関連して様々な不正疑惑が指摘された。「ホワイトウォーター事件」と呼ばれるものである。この事件には彼女も一定の関与があったとされる。その疑惑は結局うやむやになったが、政権発足間もなく明るみになったこのスキャンダルに対処した際の彼女の言動に対して「何か隠している」「正直に話していないのではないか」という疑念がもたれた。それに対する有権者の潜在的な不信感が、このメール問題で「やはり」という形で噴出してきたと考えることができる。

 そもそもクリントン氏がダントツのトップを走っていたという支持率についても割り引いて考える必要があった。というのは、彼女が米大統領選に出馬を表明した今年4月、民主党候補として他を寄せ付けない圧倒的な数字を示してきた。しかし、予備選挙もまた候補者による討論会も始まっていない最初の段階では、一般の人にとって他の候補者についての知識は希薄である。

 そんな中で、極めて知名度の高いクリントン氏に支持が集まるのは当然の話である。むしろ、1990年代からアメリカ政治の中心にいたクリントン氏に対して、彼女に対する好き嫌いの評価はすでに定まっており、知られすぎたクリントン氏がブームを起こすのは容易でなく、これから支持を大きく重ねていくことは難しい。むしろ何かネガティブな事が起きた場合に、他の選択肢が頭に浮かばず、何となく支持していた人たちが剥がれ落ちる可能性の方が高かった。

 ブームという言葉を賞味期限と言い換えることもできる。クリントン氏は名門女子大であるウェルズリー・カレッジを卒業し、その後エール大学ロースクール、そしてトップランクの弁護士として、社会で活躍する新しい女性像の先駆者として走り続けてきた。そうした彼女にとって、その最終ゴールが「初の女性米大統領」ということになるのだろう。そんな彼女が当選すべき旬の時期は前回立候補した2008年であった。あるいは準備が不十分でもブームを巻き起こすという点で言えば、ファーストレディから去って間もない2004年の米大統領選の時期だったのかもしれない。

 だが、これまで彼女を支持してきた女性たちが60代あるいは70代となる一方、現在は、彼女を知らない若者たちが多く有権者となっている。選挙のカギを握るそれら無党派層は、70~80年代に時代の寵児だった彼女のことはほとんど知らない。素晴らしい働きをした国務長官時代のクリントン氏のことは認識しているが、そのことは今回のメール問題で帳消しにされようとしている。また新たな女性の有力候補も出てきている。共和党でヒューレット・パッカードの最高経営責任者(CEO)だった、カーリー・フィオリーナ女史が静かに、しかし着実に支持を集め始めている。鮮度という点ではこちらのほうが遥かに高い。

 とはいえ、こうした逆風であっても、現時点ではクリントン氏が民主党候補者として敗れることは想定できない。先に紹介したサンダース氏がブームを引き起こしているとはいえ、現実的に勝ち残るためには様々な面で不安が残るためだ。一つはアメリカにはやはりそぐわない社会主義思想。また米大統領選挙は、人員と資金をいかに集めるかという総力戦であり、その点で態勢が不十分だと思えるからだ。彗星のごとく現れて当選したようにみえるオバマ大統領も、実はその組織づくりや資金集めは極めて周到なものだった。

 そこで注目すべきは、現在副大統領のジョー・バイデン氏である。彼は現時点で出馬を表明していない。また副大統領として堅実に仕事をこなしているが、存在としては地味で国民的な人気を博しているとは言えない。そのため現在、クリントン氏を脅かす存在とは思われていない。しかしながら、サンダース氏がこの後も勢いを保ち、一方のクリントン氏の失速が止まらないようだと、「勝てる候補者」としてバイデン氏が押し出されてくる可能性も否定できない。

 失速を乗り越えてクリントン氏が民主党で大統領候補として指名を獲得した場合はどうだろうか。その場合に、共和党候補者としてジェブ・ブッシュ氏のような正統派の候補者が出てきた場合には、互角の勝負となるか、あるいは成算があるかもしれない。一方、現在トップを走る異端児の億万長者、ドナルド・トランプ氏が勝ち残って出てきた場合には、同氏の勢いに苦戦を強いられよう。

 最後に、全く学問的でもないし事実に基づいて記述するジャーナリズム的でもないが、お許しいただければ、私の感覚的なことを付け加えさせていただきたい。

 それは人間の運不運である。彼女の夫、ビル・クリントン氏は極めて運に恵まれた人間であり政治家である。大統領になる選挙期間中も大統領に就任後も、あれほどのスキャンダルに見舞われた米大統領は記憶にない。一時、弾劾の危機にまで直面した。そうした振る舞いに対して共和党を含む一部の人からは激しい嫌悪感が示された。だが、常に明るく陽気に振る舞ったビル・クリントン氏は、経済が好調だったこともあって、そうしたマイナスをものともせず最終的には高い支持率を得て2期8年の任期を終えた。2012年の米大統領選でも現職のバラク・オバマ氏が苦戦する中、夏の党大会でクリントン元大統領は彼を強く支持する演説を行って最も熱い拍手を受けた。今でも世界各地から講演依頼が引きも切らない人気者である。

 しかし、彼は回りの人の運を全て奪っているように思えてならない。8年間、副大統領として彼を支え続けたアル・ゴアはビル・クリントン氏の後任の座を狙って大統領選を戦ったが敗れた。その際にはクリントン氏が引き起こしたスキャンダルであったにもかかわらず、「スキャンダルまみれの民主党のホワイトハウス」からの決別というムードが、ゴア氏にマイナスに働いた。ヒラリー・クリントン氏も同様で、スキャンダルの当人であるはずの夫は無傷で、その際のマイナス・イメージを一人で背負わされてしまっている感は否めない。そうした不運が彼女にはついて回るような気もする。

 だが、米大統領選はまだ始まっていない。私はクリントン氏の失速についてネガティブな要素を取り上げて説明したものの、クリントン氏は現時点で選挙に必要な人員と資金において万全であり、クリントン氏のこの先の当選可能性を全て否定的に断言するものではない。予想は局面によって大きく変化することを改めて述べておきたい。