富坂聰(ジャーナリスト)

 《『Voice』2014年1月号[総力特集]中国の余命 より》

PM2.5と発がん性の関係が明らかに


 中国東北部で暖房が解禁された10月下旬、各家庭で一斉に石炭が燃やされたことで東北三省の大気の状況は一気に悪化した。

 国営新華社通信は、現地からの報道として昼間だというのに真っ暗になった街の写真を〈『ママ、今日は世界の終わりの日なの?』と子供が訊ねた〉という大きな見出しを付けて伝えたほどだった。

 ハルビン市では、一時PM2.5の濃度が1立方メートル当たり595マイクログラムにも達し、「散歩で自分が連れている犬の姿が見えなかった」などといったジョークまで飛び交ったという。大気汚染の深刻な状況が伝わる話には枚挙にいとまがない。

 PM2.5に代表される中国の大気汚染の問題は、『Voice』(2013年5月号)でもすでに報告したとおりだ。だが、今冬には例年にないほど濃度も規模も深刻な汚染になるのではないかと心配されるようになっているのだ。

 通常、PM2.5の問題は気象条件などの影響で真冬から春先にかけて深刻化するものだが、2013年にはこれが秋の時点ですでに中国各地で高い濃度を観測するようになっていたからだった。

 この事情は、上海に次いで日本人が多く暮らす北京で顕著だった。

 「北京に暮らす日本人のあいだでは、あいさつ代わりにPM2.5の話をします」

 と教えてくれたのは全国紙の北京特派員である。北京中心部の喫茶店でおもむろにポケットからスマートフォンを取り出すと、濃度測定のアプリを開いて画面を見せながら話を続けた。

 「いまの数値は、266(2013年11月13日)です。悪いでしょう。まだ統計には表れていないようですが、日本人の中国離れが大気汚染によって一気に加速していると思います。とくに家族だけを日本に帰す動きが目立っている、と引っ越し業者が話していました。2012年の反日デモの影響で下火だった中国人の日本旅行は、国慶節のころには元に戻ったようですが、日本人の中国観光はまったく戻ってこないと業者は嘆いています。対前年比でマイナス60%、ひどいケースではマイナス90%にも落ち込んだといいますからね。これもPM2.5の影響でしょう。どうやら日本人が中国を敬遠する最後の引き金を引いてしまったようです」

深刻な大気汚染の影響が続いた上海。対岸の外灘地区も全く見えない=2013年12月
 影響は日本人にとどまらない。欧米のビジネスマンも中国への投資を手控える動きを見せ始めているという。2013年10月にWHO(世界保健機関)が、PM2.5と発がん性の関係について初めて正式に認めたことが大きかったとされる。

 加えて中国疾病予防コントロールセンターも、2013年に中国で発生したPM2.5による大気汚染によって健康に影響を受けた人口が全国で約6億人に達し、国土にして全17省(直轄市と自治区を含む)の4分の1にも及んだとの数字を公表し人びとに衝撃を与えたのである。

 経済への損失が顕在化するなか、中国政府もいよいよ本格的な対策を発表した。

 各地が発表した「空気清浄行動計画」のなかで北京の計画は、2017年までに、PM2.5の濃度を現在(2012年)の基準から25%削減し、1日の平均値を1立方メートル中60マイクログラムまで抑えるというものだ。

 ちなみに日本の環境基本法では1立方メートル中35マイクログラムというのが健康を維持できる基準とされ、北京の現状は11月までの時点の1日平均で90マイクログラムとなっている。

 これを60マイクログラムまで下げるために、問題の16.7%を占めるとされる石炭の使用を抑制するというのだが、具体的には北京市の第六環状線の内側にあるセメント、石油化学、酒造、機械などの石炭を多く使用する企業――中国全体では鉄鋼、有色金属、化学工業、建材がエネルギーを最も消費する産業として全体の4割以上を占めているとされる――をターゲットに、2016年までに計200万tの石炭使用を削減することを義務付けるというものだ。

 しかし、あらためていうまでもなくPM2.5の原因となっているのは工業使用の石炭だけではない。空気中のホコリ(20%)のほか、暖房用に使用される石炭が約18%、そして最も大きな原因とされるのが自動車の排気ガス(20%)なのだ。その自動車はモータリゼーションの深化にともなって肥大化し続けている。現状、新しく市場に投入される自動車の数は毎年約2000万台にも上るとされ、この新車販売台数の伸びは石油の消費量を年2%から3%の勢いで押し上げていくというのだから悩みは深いといわざるをえない。

 汚染物質を空気中に出すことを抑制するためには脱硫装置などの対策が有効であることはいうまでもないが、これは大きな規模の工場のような施設であれば大きな効果が望めるのだが、対象が小さくなれば効果も期待できない。コストが合わないという問題に加えて対策が限られるからだ。

 2013年には夏から秋にかけて、悪い日中関係にもかかわらず、中国は川崎市と東京都に環境問題のミッションを派遣してきているのだが、個別の家庭で暖房や炊事のために焚かれる石炭の対策は日本にもないのが実情なのだ。

 この状況を改善していくためには、個々の家庭で燃やしている石炭や練炭に代えてエネルギーを提供することが大切だ。たとえば暖房用には1カ所で温めた熱湯をまとまった町に提供する方法が有効であるし、また料理にまで石炭を使う家庭にはガスを引くような対策もある。

 だが、それらは金銭面からも障害が大きいのに加えて、石炭を常用する低所得者の塊のような集落に対しては、たいてい都市開発の観点からも彼らの住環境を充実させて居座られては大変だという行政サイドの思惑も働いているから複雑なのだ。

 また再び産業界に目を向ければ、そこには国家のエネルギー政策の壁も如実に表れてくるのだ。

 現在、石炭を多用する企業があふれている中国で、それらを少しずつ石油に代えてゆくだけでも環境には寄与するはずだが、ここで障害となってくるのがエネルギーの対外依存度の問題なのだ。

「お腹がすいているのに環境どころではない」


 エネルギーを過度に外国に依存することはエネルギー安全保障という観点から見て歓迎すべきことではないのは当然だ。なかでも中国が神経を尖らせているのは、石油の対外依存度が(第12期5カ年計画において)政府の定めたデッドラインの61%に近づいていることだ。

 国家エネルギー局の元局長・張国宝によれば、2012年に中国国内で消費された石油は36億2000万tで輸入量は2億7000万t。それが2013年には3億tにまで膨らむと予測されているのだ。

 IEA(国際エネルギー機関)によれば、中国は2035年には石油の対外依存度は80%を超えるとの予測もあるだけに単純に脱石炭への道を進めばよいという話でもないというわけだ。

 ついでに触れておけば、自然エネルギーもきわめて頼りない状況だ。たとえば風力発電の発電量はいま中国が世界で最も大きな規模とされているが、それとて全電力のわずか2%を賄っているにすぎないのだ。もとより、現在急ピッチで建設が進められている原子力発電が短期的に中国の問題を改善してくれるはずもないのである。

 つまり「現状で北京の空気を劇的に改善できるのは雨と風だけ」(北京のテレビ関係者)という重い現実が横たわっているのだ。

 実際11月中旬、266にまで高まっていたPM2.5の数値を劇的に下げる役割を果たしたのは、北から吹き降ろしてくる強烈な風であったと現地の天気予報も報じている。

 興味深いことは、これまで日本で大きく報じられるのとは裏腹に大気の汚染に比較的無頓着だった中国人もさすがに深刻に受け止め始めたのか、街でもマスク姿で歩く人が増えているのだ。

 話題の人物でもある陳光標率いる江蘇黄埔再生資源利用有限公司による、大気汚染が深刻な北京と上海で新鮮な空気を缶詰にして売り出すという珍事業が真面目に展開された――その後これはネットで叩かれたことにより消滅したようだが――ほどの深刻な状況が続いているのである。

 この問題の解決が簡単ではないのは、第一に、企業が環境基準違反を指摘されても罰金で済まされるならば、それによって儲けられる額に比べ罰金のほうがはるかに安いことから、企業が環境保護のほうにインセンティブを働かせることがないといった実情が挙げられるだろう。

 また、その次の問題として、もし厳しい罰則を適用すれば経営が成り立たなくなる企業が続出し、一気に環境よりも政府が恐れる失業が社会にのしかかってきてしまうということがあるのだ。

 かつての日本の状況を考えても、「お腹がすいているのに環境どころではない」といった考え方が広がっていることは、とくに大都市以外では想像に難くないのだから、環境対策で工場を潰すことに理解が得られないすさんだ荒野が広がっていることもわかるというものだ。