富坂 聰(ジャーナリスト)

 8月末から9月にかけて北京を訪れた。中国の友人たちと日中それぞれの国での最近のトピックを話題とするなかで、意外にも中国人に大うけしたのが天津港の爆発事故に関連する日本での報道についてだった。 

「江沢民派が仕掛けた攻撃?」日本の報道を笑う中国の人々


天津の爆発事故現場(Getty Images)
天津の爆発事故現場(Getty Images)
 「あれは日本では江沢民派が仕掛けた攻撃だといわれているよ」

 こう告げると中国の友人たちは、みな腹を抱えて笑うのだ。日本に留学した経験があり、日本びいきの元官僚は、

 「東京オリンピックのエンブレムのパクリ問題といい日本社会が劣化してるんじゃないか」

 と心配顔になった。日本と関係の薄い中国人は、

 「それなら中国にも負けないくらい馬鹿げた話があるよ」

 といってこんな話をするのだった。

 「天津での事故が報じられた直後、湖南省の一人の失業中の青年が、『天津の爆発は、私の犯した間違いだった。でも、私は後悔していない』とネット上に書き込んで身柄を押さえられるっていう騒動があったんだ。湖南省公安庁の下に設けられたネット安全保衛技術偵察総隊がウィチャット上で発信した捜査情報で明らかにしたことだ。

 ご丁寧に『工場の社長が自分を薄給で酷使したことだ』と動機まで綴っていたんだけど、犯行については、『燃料の入ったドラム缶の近くにあった固形の揮発性物質に自らライターで火をつけて逃げた』というんだ。

 当局も青年の犯行声明をまともに受けてはおらず、当初からネット警察が動いて、彼を〈虚偽情報を故意に流布し社会秩序をかく乱した〉として『5日間の行政拘留』したことでも明らかだけどね」

 中国天津市の港・濱海新区で起きた爆発事故、いわゆる〝8・12〟の爆発の原因はいまだにはっきりしない。陰謀説と親和性を持ってしまうのは、こうした当局の対応にも関係しているのだろう。

 それにしても死者159人を超える(9月3日時点)悲惨な事故を政治的陰謀として仕掛けるリスクとはどんなものなのだろうか。しかも習近平政権にはほとんどダメージのない陰謀を。

数え上げればきりがない工場爆発事故


 そもそも企業がしでかす事故や問題は、濱海新区に限らず頻発している。そうした事故と違い天津港の事故だけが政治的背景を持つ意味はどこにあるのか。それともどの事故も同じように裏に政治が動いているのだろうか。

 かつて上海で食品加工会社が期限切れ肉を使用していた問題では、日本では「共産党の外資潰しだ」という説が流れたのと近似している。

 私は当時、このページでマスコミが潜入取材で問題を明らかにするケースは毎週起きていることで、この問題だけを取り上げて傾向を分析することは間違いだと事例を挙げて書いたことがある。

 同じように工場の爆発事故も挙げればきりがない。そしてたいていのケースが、上級機関が下級機関を叱り飛ばすショーによって幕が引かれることは、毎日中国のテレビを観ていれば理解できるはずだ。

 いわんや党中央が出てくるのであれば大衆が望むのは「正しいお裁き」であり、地方の腐って威張っている官僚に鉄槌を下してくれる姿を見ることだ。天津事故で習政権が傷つくことはありえないし、実際に現状を見てもそれは明らかだろう。

 上海の期限切れ肉の問題が「外資潰し」でなかったとしても、日本のメディア界では誰も責任も問われない。無責任極まりない言論空間が横たわっているのだ。後に検証されることもないため、派手なことを言えば言うほどメディアにもてはやされるという悪循環が絶たれることもない。

 事実、9月3日の「抗日戦争勝利70周年」の式典には、江沢民も胡錦濤も登場し、丁重に迎えられていたが、江沢民黒幕説が日本で検証されることはないのだろう。

 これも日本人がいかに真剣に国際情報に向き合っていないかの証左なのだろう。

 さて、では真相は何なのだろうか。

 もちろん当局から正式な原因が示されていないのだから想像するしかないのだが、私はこの問題の核心は、爆発から4日後に現場に入った李克強首相と、その李首相の眼前にスマホのカメラを突き付けながら質問を発した香港の記者とのやり取りではないかと考えている。

消防隊員の犠牲精神は英雄に価する一方で、杜撰な薬品管理


 当日の現場では、「編外消防隊員の問題をどう考えているのか?」と唐突に訊ねる記者に対して李首相はこう答えている。

 「消火活動に参加した消防隊員は現役、非現役にかかわらず訓練を受けていた。火災現場の危険性はよく知っていたが、危険な場所に自ら身を置いた。その彼らの犠牲の精神に心が痛む。彼らは英雄であり、英雄に“編外”もなにもない」

 中国語の編外は日本語では「編成外」と訳すべきだが、この場合は非正規の消防隊員を指している。背景にあるのは消防隊員遺族の抗議活動であり、非正規消防隊員の家族たちは補償面で公務員と大きな差が出ることに憤っていたのであった。このことは犠牲者の多くが非正規消防隊員であることも意味していた。

 事故後に公表された情報では、火災現場に投入された消防隊は、天津市公安局の下に置かれた消防隊員約1200人を中心に、河北省滄州、廊坊、唐山の消防隊から駆け付けた増援部隊が加わったとされている。消防隊員たちに化学薬品を消火する十分な知識が備わっていたのかを会見で問われた天津市は、「あった」と答えている。しかし、これは間違いではないが誤魔化しであった。

 実は、最も早く現場に到着したのは天津港公安局が独自に組織した消防隊で、隊員はみな組織上、公安組織の所属ではなかったからである。天津市が「あった」と語ったのは正規の消防隊員のことなのだ。正確には天津港公安局消防支隊第4大隊であるが、天津港公安は天津港という公の組織ではない。天津港集団という企業に近い存在だ。これはかつて企業の中に警察組織や刑務所が備わっていたことの名残だが、要するに警備員の下の消防隊なのだ。

 そして現場で二次災害的に起きた大爆発と最大の被害者と目されるのが、初期段階で消火活動を行った消防隊員だという2つの事実を突き合わせたとき、加害者と被害者が同じであるという政府としては受け入れがたい可能性が浮上してくることが避けられない。

 後には意図的にテレビには映さなくなったのだが、当初、遺族が掲げた消防隊員の写真がみな高校生のように若くて違和感を覚えたが、それだけに余計いたたまれない事故だといえるのだろう。いずれにせよ政府は、不満が出ない程度に情報を更新しながら時間を稼ぎ、本当の利害関係者だけと向き合うことのできる環境を待って問題を解決しようとするのだろう。

 天津爆発の約2カ月前に起きた長江の遊覧船転覆事故への関心がもはやすっかり失われているように、この事故に人々が興味を失うのも時間の問題だと思われたからだ。

 それにしても驚かされたのは、火災発生現場の倉庫に何が置かれていたのか、誰も正確に把握されていなかったという中国の杜撰さである。爆発の翌日から事故調査担当当局は現場にあった薬品の特定を始めたのだが、それは「税関書類と現場採集した物質の分析結果との突合せ」(天津市の会見)という方法で行われるというのだ。つまり、企業が提出した書類だけではどうにもならないのだ。

 当局の迷走は、日々更新される倉庫に置かれた薬品の種類が、たった2日間で20種類も増えたことでも明らかだろう。