武田邦彦(中部大特任教授)

 「核廃棄物の最終処分は安全か?」という答えは「安全」。それもかなり安全で、日本列島に住んでいる一般人が地下に格納した核廃棄物からの放射線で被曝する可能性はほとんどない。まして地上で現実に「動いている=核分裂している」原発と比較するとまったく問題になることではない。

 原発が危険なものであることは、2011年に起こった福島第一原子力発電所の爆発事故でよく分かった。爆発によって日本列島や近海に放出された放射性物質の量は日本政府発表で約100京ベクレルで、もしこの放射性物質が日本人の頭の上にそのまま降ってきたら、日本民族が絶滅する量である。

 なぜ、原発は危険なのか? それは単に放射性物質を大量に保有しているということだけではなく、「原子炉内に大量に存在する放射性物質が一気に周辺にまき散らされることがある」から危険なのだ。

 第一に、原子炉内に存在する放射性物質は「核分裂中」なので、短寿命核種が多く放射線は極めて強く発熱も膨大だ。

 第二に、「核分裂反応をしているか、ちょっと前まで核分裂をしていた」から原子炉内には膨大な熱があり、爆発したり、メルトダウンしたり、さらには水蒸気爆発をするからだ。

 仮に、原子炉を止めて数10年を経過した原子炉は爆発しない。すでに短寿命核種は崩壊して強い放射線を失っており、分裂せず熱も発生しないからだ。

 では「原子炉」と「核廃棄物の最終処分」を比較してみよう。第一に、原子炉は「熱い=核分裂中か直後」であり、処分場は「冷たい」。第二に、原子炉は爆発する力があるが、処分場には無い。第三に、原子炉は地表にあるので地震やテロなどで打撃を受けるが、処分場は地下なので揺れが少ないところに格納できる。そして第四に、事故が起こって放射性物質が漏れると、原子炉はそのまま住民が被曝するが、処分場は地上に住む人には影響がない。

 だから、現在は日本列島に30基ほどの運転可能な原子炉があるが、たとえそれが1基でも処分場とは比較にならないほど危険である。仮に「地表にある原発を運転することが日本にとって安全」なら、地下に格納された処分場は「超安全」であり、何の問題も無い。

 日本は火山国で地震も多いので地下の埋設に不安を持つ人がいるが、地下の浅いところを除けば地層は安定している。

 しかし、日本ではこれまで原発を1963年から動かしてすでに50年以上にもなるのに、まだ原発から出る核廃棄物を格納するところも決まっていないという異常な事態が続いているのは、「技術上の安全の問題」ではなく、「別の社会的要因」による。

 一言でこの「社会的要因」を言えば「政府の信頼性がない」と言うことに尽きる。この場合の政府は日本政府自体と原子力の専門家、電力会社などの全体で、失った信頼性は「長年の言質と政策」にある。あまりにも当然の結果だが、当事者はまだ気がついていないか、気がついていてもどうしたら良いか分からないということだ。

新潟県中越沖地震の影響で火災が発生、煙が上がる東京電力柏崎刈羽原子力発電所=2007年7月16日(第9管区海上保安本部提供)
 新潟の柏崎刈羽原発が地震で破壊され場内で黒煙を上げる火災が発生しているのに地元になにも連絡しないで「安全です」というとか、高速増殖炉「もんじゅ」で燃料棒を引き上げられないという事故が起こったにもかかわらず「事故ではない」と強弁して、結果的に自殺者を2名出したりする。

 こんなことが続けば国民が原子力に対する不信感が増大するのは当然なのに、個別の担当者は日本全体の長期的な原子力の信頼性を失うより、目の前の事故をいかにして小さく見せるかに全力を注ぐということをやり続けた。

 電力会社は原子力で収益を上げたいと思うので、研究開発費を年間5000億円ほど国庫から応援を受け、電源三法で地元への資金を供給し、政治家、原子力専門家などにいろいろな名目で支払うお金は1000億円にも上ると噂されている。事実がどうかというより日本人の多くがお金の点でも不信感を持っていること問題である。

 2006年には「原子力発電所は安全と言えない(残余のリスクがあるという表現)」という文書が政府部内に回り、同時に国民には「絶対に安全」という説明をした。さらに福島原発事故のあとは法令の被曝限度が1年1ミリシーベルトと決まっているにもかかわらず、政府とメディアでそれを隠すということを行った。

 政策やお金のためには国民にウソをつくという体質が固定し、それに乗じて理不尽で非合理的な論拠を掲げる原発反対派の専門家や思想家、政治運動の力が強くなり、どうにもならなくなったというのが実情である。

 筆者は「原子力反対派」の執拗で激しく、どうにもならない攻撃に大きな被害を受けた一人であるが、それは反対派側の問題ではなく、推進側のウソが原因していると認識している。

 そして、日本国民が原子力政策に不審を抱いていることが、危険な原子炉ではなく、より安全な核廃棄物の処分場にでるのは、「正当化の原理」が働いているからである。

 人間社会で行われることは「実利=損害」(正当化の原理)で決まる。原発は電気を安く供給してくれるという実利があるから、危険性は我慢しようということになるが、処分場は損害だけあって実利がない。そして処分場は電気も何も生じないので、実利としては「お金の供与」だけになり、それでは大義名分を失って社会の合意を得られないからである。

 まず、核廃棄物処分場の問題は「不誠実」の問題であることを認め、すでにある使用済み核燃料を次世代に引き継がない誠意を示すことだろう。