小川榮太郎(文芸評論家)


あの戦ひが世界史の中に初めて位置づけられた



 安倍総理による談話発表の記者会見を見た後で、妻が涙を流しながら言ひました。「英霊が本当に喜んでゐる」と。

 私は虚を突かれたやうに思ひました。

 歴史観がどう、政治的なメッセージとしてどう、言ひ回しやレトリックがどう……私の頭の中では、聞きながら、さうした論評が経巡つてゐましたが、一方で、絶えず、何か精神的に大きな事件に立ち会つてゐるといふ揺るぎない感触がありました。妻の一言は、それを射当ててくれたと感じたからです。

 英霊たちがこの談話をどう聞いたか――正に、日本国総理大臣による戦争に関する談話に、最も深く関与し、参加すべきなのは、何よりも、当時の日本人に違ひない。とりわけ身を以て戦場で戦ひ、戦死した人達に違ひありません。

 彼らは安倍談話をどう聞いたか。

 七十年もの長きに渡り、日本では、自分たちの戦ひの歴史的な意義、戦ひに至つた意味をはつきり語る事から、歴代総理大臣が、全員、逃げて来ました。

記者会見する安倍晋三首相=8月14日午後、首相官邸
記者会見する安倍晋三首相=8月14日午後、首相官邸
 それを、「安倍談話」は、近代帝国主義時代の世界史から説き起こし、日本がどういふ苦難の中で、あの戦争に突入したのかといふ歴史の流れを、初めてはつきりと語つた。凝縮された歴史認識とは言へ、総理が言外に描き出さうとした「世界史の中の日本」の姿が如何なるものかは、歴史に通じた人間なら直ちに了解できる内容でした。

 これ程重大な価値転換があるでせうか。

 何しろ、日本の主流派歴史学が、七十年間、「日本は狂信的な軍国主義の暴走によつて、自ら勝手に、無謀な戦争に突入した」と、語り続けてきたあの戦争を、国際環境の中での苦闘によつて、「新しい国際秩序」への「挑戦者」にならざるを得なかつた国際文脈――新しいがミソです――に立つ談話を、総理が出したのです。

 本誌『正論』を始め、保守派論壇で流通してゐる歴史認識からすれば、東京裁判史観から脱却してゐない、アジア解放が語られてゐない、復興に際しての感謝がまるで戦勝国に媚びてゐるやうだ、などと思ふ人もゐるかもしれません。

 が、世界は保守派論壇ではありません。日本の主流派歴史学が世界中で東京裁判史観=御詫び史観を日本の権威ある正史として、宣伝し続けてきた。その上、今の国際環境下では、東京裁判史観は、旧敵国(連合国)と、現在日本を敵視する二か国とを、日本封じ込めで連動させ得る微妙な政治装置になつてしまつてゐる。

 この二つの条件を無視した総理談話など出せる筈がない。いや、出してはいけない。

 かと言つて、この機会に「安倍談話」を出さなければ、「村山談話」が公式な政府見解として残り続ける事になります。安倍総理以下、以後の総理は皆、「村山談話」を踏襲すると言ひ続ける事になるのです。

 さう考へあはせた時、世界史的な趨勢の中での近代日本の立ち位置、日露戦争の意義を語りつつ、昭和の戦争を「侵略」ではなく、しかもリヴィジョニストといふ批判を巧みにかはして「新たな世界秩序への挑戦」と位置付け直した安倍談話は、日本が依つて立つ歴史観の、戦後初の転換といふ程大きな意義があります。

 英霊が喜ばない筈がない。

 その上、総理は、もう謝罪を次の世代に背負はせないと明確に語りました。

 自分が英霊だつたらどう感じただらうか。

 自分達が命を棄てて戦ひ、大義と祖国、郷里と家族の為に戦つた戦争が理由となつて、子孫が七十年経つても謝罪し続け、あらう事か、指導的な日本の学問やマスコミが、率先して謝罪を国民に強要し続けてゐるその口惜しさと無念。……

 それを、総理が、やつと言葉にして、はつきり内外に発出してくれた、その事への英霊の安堵は如何ばかりだつたらうと思ひます。

 一方「安倍談話」は、空前の国内外の反応を通じて、余りにも異常な日本の言論空間を炙り出すことにもなりました。

「安倍談話」に対しては、国内世論が概ね評価をしてゐます。ネット上のヤフー意識調査では大いに評価とある程度評価が合はせて七四%に上り、産経・FNNの評価でも五七%が評価、数字の厳しい共同通信でさへ評価が四三%で、評価せずの三七%を上回つてゐます。しかも、安倍談話を機に内閣支持率が一層落ちるといふ大方の予想を裏切り、支持率は上昇しました。

 その上、旧敵国アメリカでは、戦後日本を「平和や民主主義、法の支配に対する揺るぎない献身を行動で示しており、すべての国の模範だ」として、「安倍談話」を評価しました。一方、中国・韓国でさへも、従来の高飛車な非難を控へ、中立的な論評に留めてゐます。

 ところが、朝日新聞は違つた。談話翌日の社説で「いったい何のための、誰のための談話なのか。(略)この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」と極めて強く非難したのです。

 国民が高く評価し、旧敵国、現敵国が、珍しく足並みを揃へて一定の評価を下した談話を、「出すべきではなかった」と一人で力みかへつてゐる。
 いつたい何のための、誰のための社説なのか。

 国民の為でもなく、旧敵国や中韓両国の為でもないならば、一体、朝日新聞は、誰のために、ここまで力みかへつて、安倍談話を全否定したいのでせう。

 国内の主流派言説のかうした異常性が改めて炙り出された事は、今回の安倍談話の大きな副産物だつたと思ひます。

 そして、安倍総理が、孤軍奮闘、戦後の言論空間を打破してくれてゐる今こそ、我々民間で、この国内主流派言説の異常性を打破しなければなりません。

 日本国民が、特殊な思考空間、言論空間に、国際社会からも置き去りにされて一人幽閉されてゐること、特殊な自己否定の強制収容所に収攬された囚人である事を、いい加減国民全員に早く知らせなければならない。

 言論空間とは、デモクラシー社会では、権力の最も重大な源泉です。実際に行使し得る三権――行政、立法、司法――を幾ら別の人達が押さへてゐても、彼らを権力の座に就け、コントロールし、いざといふ時、彼らを権力の座から放逐できるのは、結局言論空間を制覇してゐる人達だからです。しかもマスコミを不信任し、交代させる一切の手段を我々国民は持ちません。三権さへも事実上彼らに全く手を付けられない。その意味で、メディアを第四権力とする議論に対して、私はあへて彼らこそは現代日本における第一権力だと言ひたい心情を持つてゐます。

 実際、政権を交代させるよりも遥かに、この人達の影響力を相対化する事の方が困難なのは、本誌の執筆者、読者ともに、嫌といふ程痛感し続けてきた所でせう。

 そこで、今回は、かうしたマスコミの異常な言論空間に知的根拠を与へてゐる日本の主流派人文学者らの異常性を告発する事で、言論空間解体の作業の為の、一つの参考を供する事にしたいと思ひます。

 素材は、七月十七日、政治学、歴史学の学徒ら七十四名が名を連ねて、安倍談話に関して出した声明です。