にわかに出現した一組の古文書群が、華やかなスポットを浴びている。林原美術館(岡山市)が所蔵する「石谷家(いしがいけ)文書」。土佐の戦国大名・長宗我部元親が明智光秀の腹心に宛てた書状からは、本能寺の変の要因をめぐり、元親と光秀の緊密な関係がクローズアップされた。そもそも、この文書はどのような意図で書かれ、どのようにして現代まで伝わったのか。そこからは、「文書の国ニッポン」の誇らしい姿が見えてくる。

名門とのつながり

 石谷家は美濃国石谷郷(岐阜市石谷)を本貫(ほんがん)とする一族で、鎌倉時代、清和源氏の土岐光行が悪党退治の功績でこの地に入った。室町時代には、将軍側近の奉公衆を務めた。光政は13代足利義輝に仕えたが、永禄8(1565)年、義輝が松永久秀らに暗殺されたことから、娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って土佐に渡った。

 後継者がいなかったため、光秀の重臣・斎藤利三(さいとう・としみつ)の兄にあたる頼辰(よりとき)を養子に迎えた。つまり元親と利三、頼辰は義理の兄弟になり、頼辰は明智と長宗我部を結ぶ実務者として、坂本城(大津市)と元親の居城・岡豊城(おこうじょう、高知県南国市)を行き来したと考えられている。

 石谷家文書は全部で47通あり、(1)長宗我部家に伝わるもの(2)本能寺の変直前のもの(3)石谷家の由緒や権利関係などに関するもの-に大別される。年代は天文4(1535)年から天正15(1587)年まで。今回、注目を集めたのが(2)だったことは言うまでもない。

 このほか、(1)には、天正6(1578)年12月16日、元親から頼辰に宛てた書状があった。長男(幼名弥三郎)に信長の一字をもらい、「信親」と名乗らせたと記されている。この話は後世の古文書集では知られていたが、一次史料で確認されたのは初めてだ。

 (3)の中では、三好長慶の書状が目立つ。長慶は阿波国(徳島県)出身の戦国大名で、管領・細川氏に仕えてそれを凌駕し、信長の上洛以前の畿内を支配した人物だ。石谷光政の知行を、長慶が保証している点が興味深いという。



斎藤家に伝わる?

こうしてみると本来、文書の多くは石谷家に伝わっていたものと分かる。しかし、今回注目された天正10(1582)年5月21日付の元親の書状は、利三に宛てられたものだ。また、利三が光政に宛てた書状もある。

 「石谷頼辰は明智光秀と羽柴秀吉が争った山崎の戦いで敗れ、土佐に身を寄せました。しかし天正14(1586)年12月、島津氏と大友氏が大分で激突した戸次川(へつぎがわ)の戦いで、信親とともに討ち死にし、家が絶えたようです」

文書を調査している岡山県立博物館学芸課主幹の内池英樹さんは言う。絶家となった場合、文書類はごく身近な親族である斎藤家に引き継がれた可能性が考えられるという。

 系図では省略しているが、利三には多くの子女がいた。その中で、三男の利宗が家を継いだ。利宗には福という妹がいた。3代将軍・徳川家光の乳母となり、のちに春日局として絶大な力をふるった女性である。彼女の援助も得て、斎藤家は旗本として存続している。

 石谷家文書はいつの時代か、バイオ関連企業「林原」の3代目社長で、林原美術館を設立した林原一郎氏(故人)のコレクションに入った。詳しい経緯は分からない。書状などは、3巻の巻物に分けて表装されていた。表装などの印象では、江戸時代まではさかのぼらないだろうという。

 巻物を納める桐箱(縦39センチ、横23センチ、高さ約10センチ)も比較的新しく、ふたには「石谷 御文書 三巻」と墨書されていた。

大事にされた「証文」

 古文書はなぜ、後世にまで伝わるのか。武士や公家、寺社などにとって、それぞれの所領を安堵する文書(土地の証文)は最も大事なものだったからである。さらに、権力者からの書状なども身分保証になる。代々、守り続けねばならない重宝だったのだ。

 約千年前に藤原道長によって書かれた日記「御堂関白記」(国宝)は自筆本が奇跡的に残り、昨年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された。東寺(京都市南区)が所有していた荘園などの管理記録「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」(同)も、その候補となっている。武家の世界では、島津家や毛利家が中世までさかのぼる文書を所蔵していることで知られる。日本の古文書は世界的にも古いものが残り、史料価値が高いのだ。

 今回の元親の書状は、光秀が本能寺の変を起こした動機についての研究を大きく前進させることとなった。文書の持つパワーを私たちは思い知るとともに、それを守り続けてきた先人の努力を誇りにしたい。(産経新聞論説委員 渡部裕明)