岩田温(政治学者)

 私は集団的自衛権の行使を限定的に容認したことで、安倍総理は一つの仕事をしたと思う。批判はあっていい。でも、一つの仕事を成し遂げた。政治家として立派だ。私はかつて、保守の中で最も激しい安倍批判を展開した人間だが(拙著『政治とはなにか』)、見直した。政治家は極めて困難な仕事だ。理想を持たない政治家はダメだが、理想に溺れる政治家であってもならない。高邁な理想を実現するために、卑近な現実を変更するための努力を重ねなければならない。理想と現実との間のバランス感覚が求められる。

 政治とは「固い板に、錐(きり)で、すこしづつ穴をあけていくような情熱と見識を必要とする力強い緩慢な仕事である」と指摘したのは、マックス・ウェーバーだが、今回の安全保障法案の整備は、必ず我が国の国益に適うものとなるだろう。

 現在、不安に思っている国民もいるかもしれない。悪質な煽動に惑わされて、恐怖している人も存在するかもしれない。しかし、後世振り返ってみたときに、必ず、「どうして、あのときあそこまで騒いだのだろう?」と思うことになる。これは、安保闘争のときも、PKO法案のときもそうだった。中曽根康弘元総理は、政治家は「歴史における被告席に座る」と指摘していたが、その通りだ。後世振り返って見たときに、評価される決断を下した政治家こそが評価されるべきなのだ。瞬間的な民意に依って、後先を考えずに行う大衆迎合的な政治は、そのときには歓迎されるだろうが、歴史によって否定される。安全保障の問題に関して、私の立場は明確だ。

 本来であれば、日本国憲法を改正する必要がある。この憲法には、日本をいかに守るかについて、全く書かれていない。書かれているのは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という、ナンセンスな国際認識だけだ。

 憲法9条は次のように定めている。

 「第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

 第一項は、侵略戦争の放棄だから、これを否定する必要はない。だが、第二項の「戦力」を否定し、「交戦権」を否定する部分は、異常だ。
記者会見の冒頭、発言する安倍晋三首相=5月14日、首相官邸(酒巻俊介撮影)
記者会見の冒頭、発言する安倍晋三首相=5月14日、首相官邸(酒巻俊介撮影)
 「戦力」を放棄し、「交戦権」を否定するのならば、本来、非武装中立論しか成り立たないだろう。実際に、社会党は、非武装中立を主張し、自衛隊の解体を主張していた。これは、国際政治の中では、あまりに非現実的な主張だが、憲法解釈としては、筋が通っている。今回の集団的自衛権の行使が憲法違反にあたると説く憲法学者の多くは、本心では、自衛隊の存在も「違憲」だと考えている。

 だが、非武装中立では国が亡びる。そんなことは誰にでも理解できる。それで、「戦力」に至らない「自衛力」という苦し紛れの解釈を創り上げた。「交戦権」に関しても、「占領」までは行わない云々と「交戦権」を極めて幅広く解釈し、その全てを持つものではないと解釈した。

 今日まで続く国防に関する神学論争は、ここに原因がある。自衛隊を創設する際に、憲法改正をするのが筋だったのだ。しかし、現実との妥協の中で、苦し紛れの「解釈改憲」で逃げ切った。

 今回の集団的自衛権の限定的な行使容認も、この解釈改憲に端を発する神学的な解釈だ。

 実際問題として、PKO活動における「駆けつけ警護」やシーレーンの防備に関して、従来「集団的自衛権」の行使だと判断されてきた行為が、日本にとって必要となっている。そして、世界の多くの国々も日本が、そうした行為に参加して欲しいと願っている。こうした中で、本来は憲法改正を行うべきところ、もう一度、苦し紛れの解釈改憲(厳密には「あてはめ」の変更)を行ったのが、今回の安倍内閣だ。

 安全保障の問題は票にならない。そして、「軍国主義者だ」「戦争を始める」といわれなき誹謗中傷を受ける。その意味で、政治家にとっては難問だ。敢えて火中の栗を拾いにいったようにも思える。だが、この安全保障に関する法案の整備は、誰かがやらなくてはならないものだった。いつまでも、「集団的自衛権は全て行使できません」といって、大国としての責務を放棄するわけにはいかなかったのだ。敢えて、困難な選択をした安倍内閣を、私は評価したい。しばし、安倍批判が続くだろう。無根拠な誹謗中傷もあるだろう。だが、歴史において、今回の決断は、必ず評価されることになるだろう。(岩田温の備忘録より転載)