SAPIOが識者50人に実施した最強のタフネゴシエーターは誰か、というアンケートで2位に選ばれた黒田官兵衛。京都造形芸術大学教授の松平定知氏は、本能寺の変のシナリオを官兵衛が書いたのではないかと指摘する。

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 豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛は戦国時代最強の軍師のひとりだが、ネゴシエーターとしても最強と呼べる人だったと私は考える。

 本能寺の変が起きたのは、天正10年(1582年)6月2日未明。秀吉は中国の毛利攻略で備中高松城を攻めている最中だった。

 大恩ある主君を失って泣き崩れる秀吉のそばに官兵衛は黙って寄り添った。そして、泣きやんだところで膝に手を置き、こう囁いた。「主君を殺せし乱臣明智光秀を討ち、天下の権柄を取り給うべき」――つまり、「ご運が巡って参りましたな。これであなたの天下です」と秀吉をそそのかしたのである。

 信長の死の第一報が入ったのは翌6月3日だったとされている。京から約200キロ離れた備中で、なぜ翌日に知りえたのかは謎とされ、光秀が毛利に援軍を頼むために送った密使が、間違えて秀吉軍の陣営に迷い込んだ、あるいは警戒網に搦め捕られたとの説もある。

 そもそも本能寺の変のシナリオを書いたのは官兵衛ではないかという説もあり、私もそう思うが、もしそうなら、光秀の動きを監視する間者を放っていても不思議ではない。
 
 柴田勝家や丹羽長秀ら他の信長家臣団を出し抜き、京に一番乗りし、光秀を討つ。そのためにはまず目の前の敵、毛利と早急に和議を締結する必要がある。ここで官兵衛のネゴシエーターとしての非凡さが発揮されるのである。

 官兵衛は毛利方の外交僧の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に会い、講和条件をまとめる。交渉が長引けば、毛利方も信長の死の情報をつかんでしまうので、一刻も早く講和をまとめなければならない。

 しかし、講和を焦り、あまりに毛利方に有利な条件を出せば、裏に何かあると勘ぐられる。そこで、備中高松城主清水宗治の首と引き換えに、家臣の命と備後、石見、出雲の領地を守るという講和条件を提示した。毛利方は宗治の首という条件に難色を示したものの、すぐに受け入れた。

 この交渉にかかった時間は、一説ではたった1日とされている。その後の秀吉軍の行軍にかかった最低限の日数から逆算しても3日が限界である。

 なぜこれほど短期間に講和できたのかといえば、官兵衛が講和の落とし所を完璧に見極めていたからだ。戦国大名にとって“領地安堵”は何にも替えがたい。しかも、「城主の首を差し出せば、家臣と領地は守る」という条件であれば、城主さえ決心すれば、即決することができる。官兵衛は、相手が疑問を抱かずに即決できる条件をズバリ提示したのである。

 毛利方が信長の死を知ったのは、秀吉軍が京を目指して出発した5時間後だったという。騙されたとわかり、毛利家の次男、吉川元春は「すぐに秀吉を追うべきだ」と訴えたが、なぜか長男隆元の息子輝元と三男の小早川隆景はそれを押しとどめた。その功により、後の豊臣政権の五大老に、毛利輝元と小早川隆景の2人が選ばれている。

 京に向かう秀吉軍にとって最大の不安は毛利が追撃軍を出すことで、姫路城までの行軍はしんがりを官兵衛が務めた。幸いにして追っ手は来ず、無事に姫路城に到着。ここで1泊して体力を回復し、秀吉は金銀財宝を家来に大盤振る舞いして士気を高めた。

 そこから京都までの行軍では、今度は官兵衛が先回りし、街道で炊き出しや水を準備した。そして、ありったけの財産をばらまいて兵をかき集め、「大返し」の間に秀吉軍はほぼ倍増。光秀軍を混乱させるには、常識を超えたスピードと軍勢が必要だったのだ。

 秀吉軍と光秀軍は山崎で対峙した後、お互いに牽制してしばらく膠着状態が続いた。そんな折、秀吉軍に毛利軍と宇喜多軍の軍旗が翻った。光秀軍はそれを見て、「毛利までが援軍を出した」と勘違いし、みるみる陣形が崩れていった。

 実はこの軍旗は、官兵衛が毛利との講和交渉の際、借り受けていたものだった。そこまで見越して講和交渉にあたっていたということには恐れ入るほかない。

 官兵衛の凄さを知れば知るほど、私は、本能寺の変は官兵衛による演出という説に共感するのである。