竹内洋(社会学者、関西大学東京センター長)

「進歩的文化人さまが到着しました」


 進歩的文化人といま言っても、「ああ、あれね」とリアルに思いだせるのは、60歳代以上の人々であろう。それよりも若い世代にとっては、いまでは具体的イメージが湧きにくいかもしれない。だから、年長世代にはいくらか復習めいたことになるが、進歩的文化人とはどのような存在だったかの説明からはじめたい。

 進歩的文化人は進歩主義的文化人をつづめて言った言葉。進歩主義とは歴史を進歩するものとみ、それを推し進める思想の謂である。進歩の先にソ連や中国の社会主義国を想定していた。したがって進歩的文化人は、敗戦後の社会党・共産党応援団として前身の自由党をふくめた反自民党の立ち位置をとり、護憲平和、非武装中立、戦後民主主義の擁護などを唱えた学者や作家、芸術家などを指した呼称である。進歩的文化人を英語に訳せば、socialist intellectuals(社会主義的な知識人)となる。

 ところで進歩的文化人のドンだった丸山眞男は、1970年代後半から80年あたりまでに書かれた「近代日本の知識人」という論稿(『後衛の位置から』所収)の中で進歩的文化人という呼称についてこう書いている。

 「進歩的文化人」はもっぱら他称であり、しかも必ず罵倒や嘲笑の調子と結びついております。そこで対象とされているのは、主として護憲運動・反戦平和運動・アメリカ軍の基地問題・被差別部落問題、そうして最近は企業公害問題などで活発に発言し、歴代の保守党政府を批判する論調を展開している知識人たちです。けれどもそれほどはっきりした特定グループを指示する言葉ではなくて、むしろヨリ大きく、彼等を攻撃する側のイメージの問題のように思われます(下線引用者)。

 70年代後半から80年代あたりは、進歩的文化人への批判が高まり、丸山は自身が進歩的文化人のドンとして攻撃の矢面に立たされることが多かった。それ故の被害者意識からの言明であることを斟酌しても、進歩的文化人をもっぱら「他称」であり「侮蔑や嘲笑の調子とむつびついている」というのは、この論文が書かれた時代についてはともかく、言葉の発生としては首肯できない。進歩的文化人はもともとは尊称用語であり、ひそかな自称用語でさえあったからである。

 というのは戦後初期には、左翼知識人が自称や決意表明として「進歩的知識人」や「進歩的インテリゲンチャ」を使用していた。そのことは、戦後初期の左翼臭が強い総合雑誌『世界評論』や『潮流』などにこれらの用語が頻出することでわかる。このようななかで、「進歩的文化人」は、戦後増産された軽薄な「文化人」のなかの「進歩的」分子という尊称用語として登場したからである。

 蔑称ではなかったという事例をあげよう。評論家青地震(1909~84)は、砂川闘争(1955年にはじまる米軍基地反対闘争)で、丸山とならんで進歩的文化人の代表格だった社会学者清水幾太郎と砂川町にかけつけたとき、地元農民からこういわれたというのである。「ただいま進歩的文化人さまが到着されました」(「戦後史のなかの岩波文化人」『週刊読売』1974年8月17日)。基地反対派の地元農民が応援でかけつけた青地や清水に皮肉をいうわけはないから、「進歩的文化人」は蔑称ではなく、その反対の尊称として存在したことの証拠となる。知識人という名称がそうであるように、自分のことを進歩的文化人などと名乗り出るようなことは憚られたが、他者からそういう括りにいれられないと、学者としての誇りを傷つけられるという類の用語だった。進歩的文化人は歴史の針を前にすすめる良心的知識人であり、かつ一流の学者文化人であるという意味が込められていたからである。


《保守反動文化人》を蹴散らす


 進歩的文化人陣営は命名闘争のために、対抗知識人を命名し括り出した。進歩的文化人の反対用語は、「退歩的野蛮人」だが、それでは漫画的すぎて負のレッテルとしての訴求力を欠く。それに対抗集団を野蛮人とすれば、進歩的文化人が自らの格を下げることにもなる。そこで進歩的文化人陣営から文化人という名称だけはのこして、「(保守)反動文化人」という命名がくりだされた。反動的文化人は歴史の針を過去に戻す復古主義者であり、権力と結託する寄生的知識人という意味がこめられていた。かててくわえて一流の学者文化人でもないという意味も込められていた。「(保守)反動文化人」の名称には、三重にも否定的意味をこめられていたのである。

 進歩的文化人を蔑称とする動きは、進歩的文化人陣営がタグをつけくくりだしたことに対する「反動文化人」側からの反撥による攻勢の結果だった。進歩的文化人陣営が投げた飛び道具が投げた者自身に戻ってくるブーメラン効果だった。そういう意味では、呼称をめぐるせめぎあいだったが、圧倒的に優勢だったのは、進歩的文化人のほうだった。

 進歩的文化人は論壇での発表の媒体は『世界』をはじめ、『現代の眼』や『朝日ジャーナル』などいくつもあった。それに対し、保守系の論壇誌には、『自由』(1959年末創刊)があったが、岩波書店から刊行された『世界』からくらべて「よく読む雑誌」などの調査でランクインすることのないマイナーな雑誌だった。『胎動』『新論』『論争ジャーナル』など保守系論壇誌の試みはいくつかあったが、購読数は数千単位で、そのほとんどは短期間で休刊にいたった。メジャーな保守系雑誌として『諸君』(1970年1月号からは誌名は『諸君!』)が登場したのは、戦後も四半世紀たった1969年(7月号)だったが、70年代の『諸君!』の毎月の実売数は、まだ二万~三万台で低迷していた。本誌『正論』が登場したのはそれから四年たった一九七三年十一月号である。その四年あとに『Voice』が1977年十二月号に登場した。購読者数で保守論壇誌が革新論壇誌と肩を並べるにいたったのは、八〇年代からである。それまでは論壇は進歩的文化人の独壇場だった。

 つまり、進歩的文化人は、戦後のある時期まで、声高に物を言う大学生やインテリ、労働組合員という小文字のオピニオン・リーダーに絶大な影響を及ぼした、大文字のオピニオン・リーダーだった。当時の保守(自民党)に対する社会党・共産党を代表とした革新陣営のイデオロギーを浸透させる役割を果たした。代表的進歩的文化人の具体名をあげれば、さきほどふれた丸山眞男東大教授や清水幾太郎学習院大学教授、久野収学習院大学教授のほかに教科書裁判で有名な家永三郎東京教育大学教授、作家野間宏、阿部知二、大江健三郎などである。60年安保反対闘争は、かれらが世論に大きな影響を与え、もっとも輝いたときであった。そして、進歩的文化人は、1967年の美濃部亮吉の東京都知事当選に代表されるように、反公害・護憲・福祉を旗印に社会党・共産党によってかつぎ出され、知事・市長に当選した。70年末までは進歩的文化人の影響力は大きかった。