別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より


荒木信子(朝鮮研究者・翻訳者)

歪曲構図への異議申し立て


 日本と朝鮮半島が一つの国として歩んだ時代が終わって今年で70年になる。併合時代はおよそ35年だから、その倍の時間が過ぎたことになる。

 これほど遠ざかりつつあるにも拘わらず、韓国は慰安婦問題で日本に攻撃をし続けている。

 その核心は、日本が朝鮮女性を虐待したという構図である。その構図が強調され、同時期の女性への言及は慰安婦ばかりが先行している感がある。あたかも当時、日本によって組織的、計画的に女性の人権が蹂躙されたかのような認識が広まってはいないだろうか。

 本稿はそうした見方への異議申し立てである。さらに日本による朝鮮統治の全体像を把握するための入り口となれればと願う。

飛躍的に高まった女子の教育機会


 日本が統治した時代、朝鮮半島での女子教育はどのようなものであったか。日本は女子教育を妨げたのだろうか。

 初等教育課程の児童数は、1911年が男子1万8920人(同年の学生数に占める割合。以下同。93・7%)、女子1274人(6・3%)。1926年には41万9904人(83・6%)、8万2120人(16・4%)、1941年には、119万825人(66・9%)、58万8900人(33・1%)となった。

 中等教育課程の生徒数は、1911年に男子2352人(85・7%)、女子394人(14・3%)だったのが、1926年に1万8232人(85・0%)、3207人(15・0%)1941年には6万6210人(79・3%)、1万7274人(20・7%)となっている。

 高等教育課程は生徒・学生数は1926年に男子2962人(95・3%)、女子147人(4・7%)、1941年は4222人(72・4%)、1609人(27・6%)である。

 裕福で開明的な考えを持った家庭の子女の中には、日本、米国などへ留学する女性もいた。日本へ留学した学生は、1926年は男子1716人(95・1%)、女子88人(4・9%)、1941年7111人(93・9%)、462人(6・1%)である(上記数字は朴宣美『朝鮮女性の知の回遊』平成17年より)。

 時代が下るにつれて在籍数は増え、女子の比率が上がっているのがわかる。また、初等→中等→高等と教育段階が上がるにつれて人数の桁数が減っていくことから、高等教育を受けたり留学することは、たいへん恵まれたことである。

 日本時代に男子よりは低いものの、女子の就学率は向上した。

上流家庭の女性たち


 京城に在住していたある日本人女性は、父が竜山中学教師、母が京城第二高等女学校の教師だった。母はその後昭和10年頃に作られた進明女学校の教師に迎えられた。同校は朝鮮王族や貴族の女子のために作られた学校だったという。こうした上流階級の少女たちについて次のように語っている。
京城女子高等普通学校の校舎前に整列した生徒と教員ら(幣原坦『朝鮮教育論』大正8年)
京城女子高等普通学校の校舎前に整列した生徒と教員ら(幣原坦『朝鮮教育論』大正8年)
 「(母が教えた生徒はみな=筆者注)王族などの上流階層の娘さんたちでみな優秀な人たちでした。彼女たちの家に連れられて行って大門が開けられますと、たくさんの使用人たちが庭の両側にずらっと列をつくって並んで、丁寧にお辞儀をして迎えてくれるんです。…彼女たちの黒色のチマチョゴリを着た姿は、とてもすてきで品のよいものでした。正月にはテクトンチョゴリを着て、その上に黒い羽織を着て私の家に挨拶に来ました。座るときは、羽織を両側にちょっと開いてなかの華やかなチマチョゴリがチラッと見えるようにして座るんです。彼女たちはいつも丁寧で静かにしていまして、その身のふるまいも態度も本当に上品で優雅でした。彼女たちはみな日本語が上手で、私のことを妹のように可愛がってくれました」(吉田多江「ソウル上流家庭の女性たちの品格」呉善花『生活者の日本統治時代 なぜ「よき関係」のあったことを語らないのか』平成12年)

 当時朝鮮に、上流家庭の優雅な女性たちも暮らしていた。後に一般的な女性たちについて触れるが、日本統治時代の朝鮮女性にはいろいろな階層の人がいたという当然のことが忘れられているのではないか。