杉原誠四郎(元帝京平成大学教授・新しい教科書をつくる会会長)


 今春公表された中学校歴史教科書の検定は注目を集めた。昨年一月に教科書検定基準が改定されて初めての教科書検定となったことがまず理由にある。社会科の検定基準が改定され、政府の統一的見解がある場合には、それを踏まえた教科書記述をするよう規定が加わった。領土をめぐる教科書の書きぶりがどう変わるのか。ここが焦点のひとつだった。

 もうひとつの注目点は、学び舎の新規参入だった。現場の教師らが寄り集まって出来た教科書という触れ込みだが、顔ぶれなどを見る限り、これまでの教科書記述の改善の歩みが停滞したり、後退したりはしないか。そうした危惧を抱かざるを得ない。学び舎の教科書はいったん不合格となって、その後、再申請され合格ということになった。

 こうした中、平成二七年四月二四日の朝日新聞に、教科用図書検定調査審議会の歴史小委員会の委員長をこの三月まで務めた国学院大学教授、上山和雄氏のインタビュー記事が掲載された。上山氏はこう述べている。

「日本のいいところばかり書こうとする『自由社』と、歴史の具体的な場面から書き起こす新しいスタイルですが、学習指導要領の枠に沿っていない『学び舎』。この2冊とも、いったん不合格になりながら結局、合格した…不合格後に出てきた本は政府見解などを加えていたので、事前にチェックする文科省の教科書調査官の案は、両方とも『○』になっていました。自由社の方は、これまでも同じ論調の別の教科書を合格にしているので、『×』にすると継続性の点で問題がある。では、もう1社の学び舎を『×』にするかですが、基準を一方に緩く、一方に厳しくするのはまずい。結果として(教科書検定の)間口が広くなったと感じています」

 このインタビュー記事は他にも問題があるが、この記述は検定基準を緩くしたために合格が許されたかのような書きぶりとなっている。まるで自由社の教科書が本来ならば合格すべきではないシロモノであるかのような看過できない発言なのだ。

基準改定に否定的な上村氏

 先程も述べたが昨年一月、教科書検定基準が改定され、社会科では政府の統一的見解がある場合はそれらに基づく記述をするよう求める規定が加わった。上山氏はこの規定を加えることに否定的だった。「政府の立場を書くこと自体は悪いことではない」としながらも「教育を通じて政府の立場を刷り込もうとしている」と述べているからだ。

 だが、これまで公民教科書などでは、竹島の領土問題などで、韓国の立場に立ったかのような記述をした教科書が散見される状況が続いた。日本の国民である子供達にまず明確に教えるべきこと、それは日本の立場だ。これを教科書に書くことは当然である。領土問題を例にすれば検定基準の改定も妥当だ。

 しかし、歴史教科書の場合には必ずしもそう簡単に割り切れない場合がある。というのは、政府見解は原則としてさまざまな政治的状況の中で妥協の産物として出てくる場合が多く、歴史認識はこれらを超越して存在するものであるからだ。

 上村氏がいう「政府の立場を書くこと自体は悪いことではないが、教育を通じて政府の立場を刷り込もうとしている」とする反対理由には私達は決して同調しない。しかし、政府見解だからといって唯々諾々と肯定的に書くことができないケースが起こり得ることは当然あると思っている。民主主義国の歴史教科書としては歴史認識が政府見解の上にある場合があることも想定しておかなければならないのだ。

 一例を出そう。「つくる会」の教科書では―現行版もそうであるが―東京裁判について批判的に記述したコラムを掲載している。今回も記述のバージョン・アップを図り、マッカーサーの「東京裁判は誤りであった」という批判的発言を盛り込み検定申請に臨んだ。

 検定官(正しくは「教科書調査官」であるが分かりやすく「検定官」とする)はこの記述に難色を示した。東京裁判に対する日本政府の見解を記述するよう迫ってきた。私たちは、検定基準が変わって政府見解がある場合、政府見解を書くべきだというルールができたのだから、この指示に従った。そしてコラムの最後に《現在の日本政府は、「裁判は受諾しており、異議を述べる立場にはない」としています》との一文を付け足した。

 なおも検定官はマッカーサー発言そのものを教科書から外すよう言外に求めていたが、しかし、これは呑むわけにはいかない。既に記述を修正したことで私ども執筆者が政府見解を肯定しているかのような印象をもたれかねない記述になってしまっている。また既に合格した現行本の記述やトーンとも整合性がとれない。

 やり取りが続き、結局マッカーサーの批判発言を正確に書くのであれば記述してよいという形で決着した。歴史事象を如何に捉えてどのように認識するかという問題は―公民分野の領土問題のように日本国民の立場をまずきちんと教わり、知るべきだとする類いの話とは違って―政府見解で縛るべき類いの話ではない。東京裁判をいかに捉えるか、どう評価するかといったテーマはそうした典型的なケースだ。政府見解を(とりわけ肯定的に)書くよう金科玉条に求められた場合、従えない場面が起こり得るのだ。