潮匡人(評論家・拓殖大学客員教授)


徴兵制が始まる?


「ゆくのは、わたしら」――二十代の日本人と思しき一対の若い男女を写したポスターに添えられた言葉(セリフ)である。最近、街角でご覧になられた読者もおられよう。

 いったい、どこへ行くのか。その答えは、(目立つように)黄色のゴチック体で大書されている。

「集団的自衛権行使は海外で戦争すること。」

 つまり若い男女の行き先は「海外」であり、その渡航目的は「戦争」ということになる。そんなバカな。脱力感を禁じ得ないが、念のため訂正しておこう。

 そもそも「集団的自衛権行使は海外で戦争すること」ではない。「戦争」は現在の国際法上、禁止されている。他方、集団的自衛権は国連憲章でも「固有の権利」として一定の要件下、行使が認められいる。両者は別の概念であり、そもそも一緒にするのはおかしい。しかも行使する地域は「海外」に限らない。日本の領土・領海・領空の可能性もある。日本周辺の公海上で行使される蓋然性も高い。等々の論点が専門的に過ぎるなら、以下に着目いただきたい。

 若い男は下着(アンダーウエア)とも見える薄っぺらな真っ白のTシャツ姿。ネクタイはおろか上着も着ていない。髪の毛は耳にかかっている。見るからにだらしない。大学生という設定なのであろう(同様に隣も女子大生か)。社会人だとしても自衛官である可能性はない。もし自衛官なら、上司が散髪するよう指導するはずだ。

 つまり、自衛官ではない若者(おそらく大学生)が「集団的自衛権行使」により「海外で戦争する」(ことになってしまう)。ポスターはそう訴えている。

 だが、それはあり得ない。なぜなら自衛官ではないからである。「海外で戦争する」のは自衛官だけである。大学生その他の民間人が「海外で戦争する」のは憲法違反である。法律上も許されない。その準備行為ですら犯罪となる(私戦予備及び陰謀罪)。実行はもちろん、海外に「ゆく」こと自体が許されない。

 集団的自衛権行使で、海外に「ゆくのは、」ポスターの「わたしら」ではない。自衛官である。たとえば私の娘。この春、第63期本科学生として防衛大学校に入校した。国際法上は集団的自衛権の行使として説明される任務も今後はあり得よう。父親としては受忍しがたいが、客観的な事実として最悪、殉職するリスクを完全には否定できない。
輸送艦「おおすみ」(左)に近づくエアクッション型揚陸艇「LCAC」(海上自衛隊提供)
輸送艦「おおすみ」(左)に近づくエアクッション型揚陸艇「LCAC」(海上自衛隊提供)
 だが、民間人にそのリスクは微塵もない。ポスターは杞憂である。はっきり言えば、たちの悪いデマである。

 いったい誰が、こんなデマを流すのか。その答えもポスターにある。井上ひさし、梅原猛、大江健三郎、奥平康弘、小田実、加藤周一、澤地久枝、鶴見俊輔、三木睦子(敬称略・以下同)。以上九名の顔写真と名前が並ぶ。

 彼ら彼女らの共通項は何か。その答えもポスターが明示する。ご存知の護憲左派団体「九条の会」、右九名はその「呼びかけ人」である。すでに物故者もいるが、会の存在感や影響力は衰えていない。

 今年三月十五日にも集会を開き、大江健三郎が「戦争を起こさない努力をしなければならない。今の首相に期待は全くできない」と安倍政権を非難。澤地久枝が「首相の一存で事が決まるという動きが露骨だ」「(このままでは)徴兵制が始まると思っている」と訴えた(共同通信)。

 彼女は本気で「徴兵制が始まると思っている」らしい。集団的自衛権→自衛官が大量退職→徴兵制という護憲派定番のネタである。

 だが現実の世界では、風が吹いても桶屋は儲からない。真面目な話、昨年七月一日の閣議決定以降、自衛官の大量退職など起きていない。逆に防大はじめ人気が高まっている。

 かつて大江健三郎は「毎日新聞」夕刊コラムで(昭和三十三年六月二十五日付)、防衛大生を同世代の「弱み、一つの恥辱」と誹謗したが、今や時代が違う。大江は続けて「防衛大学の志願者がすっかりなくなる方向へ働きかけたい」とも書いたが、幸い、正反対の方向となっている。現に、娘が受験した文系女子枠の倍率は32・4倍。とくに女子は合格者数を制限しているため、東大と並ぶ難関校であり人気も高い(娘も慶應を袖にした)。もはや大江らの感覚は通用しない。

9条が世界遺産?

 視点をポスターに戻そう。見るからに自衛官ではない男女に「ゆくのは、わたしら」と言わせたのは、なぜか。集団的自衛権によって「徴兵制が始まる」、だから一般の大学生も徴兵され「海外で戦争する」ことになる、そう不安を抱かせるためであろう。

 徴兵制その他、集団的自衛権に関するウソや捏造報道については拙著新刊『ウソが栄えりゃ、国が亡びる――間違いだらけの集団的自衛権報道』(ベストセラーズ)で詳述したが、護憲派は頬かむり。今も「徴兵制が始まる」とデマを流す。九条の会自身「集団的自衛権行使容認反対のポスターです。積極的にご活用下さい。地域、職場、学園に大いに貼り出しましょう!!」と呼びかけている(公式サイト)。

 自らは安全な場所(大学や民間)にいながら、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえること」を誓った自衛官の誇りをウソやデマで傷つけながら、恬として恥じない。自分は正しいと思い込み、改憲派や安倍政権を口汚く非難する。実に不潔な連中である。海外では見向きもされまい、と思っていたが、正直、不明を恥じる。今年、彼らがノーベル平和賞を受けるかもしれない。事の次第を説明しよう。

 かつて太田光と中沢新一が『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)と訴え、一世を風靡した。同書の護憲論については当時、拙著『憲法九条は諸悪の根源』(PHP研究所)で反論したので繰り返さない。ここでは世界遺産の資格要件に論点を絞ろう。

 世界遺産とは、文化遺産か自然遺産、あるいはその両方の価値を備える複合遺産のいずれかである。結論から言えば、九条は右のいずれにも当たらない。「憲法九条」への評価はさておき、客観的な事実として憲法典の条文である以上、自然遺産に当たらないことは言うまでもない。ゆえに、複合遺産にも当たらない。

 ならば文化遺産はどうか。文化遺産とは記念工作物や建造物群、遺跡など。記念工作物とは「建築物、記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的な性質の物件(中略)であって歴史上、芸術上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」(条約)。価値の有無を議論する以前に、九条は建築物でもなければ、絵画や物件でもない。念のため付言すれば、建造物群でも遺跡でもない。ゆえに、九条の価値を最大限評価するとしても、有形の不動産でない以上、世界遺産にはできない。

 そこで登場したのが、「憲法九条にノーベル平和賞を」と訴える運動である。

 ならばノーベル平和賞はどうか。

 創設者のノーベルは「国家間の友好、軍隊の廃止または縮小、平和会議の開催や促進に最も貢献した人物に」と遺言した(矢野暢『ノーベル賞』中公新書他参照)。ゆえに、そもそも「人物」でない九条への授与はノーベルの遺志に反する。げんに当初、ノーベル委員会も無反応だった。

 本来なら世界遺産と同様、一笑に付されるような話であろう。ところが二〇一四年、ノーベル委員会は申請を受理し、平和賞の候補として登録した。

 なぜ登録されたのか。それは「憲法9条」ではなく「憲法9条を保持する日本国民」と申請されたからである。この話には笑えないオチが付く。