竹田恒泰(作家)

「ノーベル平和賞」の政治利用


 昨年4月、「日本国憲法第9条」がノーベル平和賞の候補になったという変な話が噂になった。どうやら、神奈川県座間市の女性がインターネットで呼びかけたのがきっかけとなり、地元の「9条の会」が協力して実行委員会が結成され、その運動が全国に広がったという。10月になると「ノーベル平和賞ウオッチャー」として知られるオスロ国際平和研究所が、「憲法9条」が最有力候補との予測を発表したことで、日本の大手メディアがしきりにこれを話題にするようになった。そのため、当初「取るに足らない話だ」と思っていた私も「まさか」という不安を覚えるに至った。

 ノーベル平和賞は個人や団体しか対象にならないため、「憲法9条を守っている日本国民」がその対象になるのだという。どこかの国の「国民」がノーベル賞を受賞するなどおかしな話ではあるが、たとえば『日刊ゲンダイ』が「安倍首相は真っ青『憲法9条』ノーベル平和賞受賞の現実味」という表題を掲げ「もし受賞すれば、安倍首相の『改憲』のもくろみは吹っ飛ぶことになる」と書くなど、日本の憲法改正議論と絡めて語られるようになった。また、見解を求められた菅官房長官が「仮のことに政府として答えるべきではない」と答える場面もあった。しかも、韓国でも日本の憲法9条をノーベル賞に推薦する署名活動が起こり、元首相や元国会議長などが多数署名したという。

 この推薦運動は、安倍内閣が主導する憲法改正を阻止するための政治運動にほかならない。読者も知るとおり、日本の左派勢力と韓国勢力の努力も虚しく、憲法9条は選考に漏れたが、ノーベル賞のなかでも平和賞は他の分野と異なって多分に政治的であり、往々にして政治的に利用される性質があるため、今後も引き続き警戒する必要がある。

 戦争放棄を定める憲法9条は日本独自の画期的なものと思っている日本人が多い。これは学校での屈折した平和教育が影響しているように思えるが、実は9条が定めることは、日本国憲法が成立する前からすでに国際社会においては確立された普遍的原則だった。決して日本独自のものでもなければ、日本発祥のものでもないのである。では憲法9条は何を元に作られたのだろうか。

戦争放棄は9条の前から


 第一次世界大戦を経験した人類は、戦争のない世界を目指して国際連盟を発足させた後、1928年には、戦争を違法とする多国間条約の署名に漕ぎつけた。「パリ不戦条約」である。第1条は次のように規定している。

 「締約国は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、かつその相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する」

 どこかで見たことがある文言が並んでいることに気付いた人も多いだろう。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と記す日本国憲法第9条1項は、その約18年前に署名されたパリ不戦条約が定めたことを表現したものなのである。正確にいえば、パリ不戦条約を発展させた「国連憲章」を基礎としているのだが、それは後述する。

 パリ不戦条約は、第1条で国際紛争を解決するための戦争を禁止し、締約国相互での戦争を放棄させる一方で、第2条では紛争は平和的手段により解決することをも規定している。宣戦布告を行わない紛争の扱いが不明確で、侵略と自衛の区別も曖昧だったという問題をはらんでいたが、この条約が、その後の戦争の違法化や国際紛争の平和的処理の流れを作る役割を果たしたのは事実といえる。

 条約の精神は、当時の各国憲法に反映された。たとえば、3年後にスペインの第二共和政のもとで成立した「スペイン一九三一年憲法」は、第6条に「国策の手段としての戦争を放棄する」と規定した。また、1934年に米国でフィリピン独立法が可決されると、その翌年に成立した「フィリピン一九三五年憲法」の第2条3項にも同じことが書かれた。いずれも日本国憲法より前の憲法である。

ニューヨークの国連本部
 しかし、国際社会は、戦争違法化と国際紛争の平和的処理の枠組みを定めたにもかかわらず、不幸にも第二次世界大戦に突入してしまう。先述のパリ不戦条約の不備も一つの大きな原因だったが、大戦が終結すると、不戦の精神は、1945年に署名された「国連憲章」という国際条約で一つの完成を見ることになる。

 国連憲章は第2条で、禁止の対象に「戦争」という言葉を使わず、「武力の行使」の語を用いることで、宣戦布告なくして行われる地域紛争も禁止の対象とすることを明確にし、併せて「武力による威嚇」も全面的に禁止した。これにより、安保理が決定した軍事制裁と、自衛権の行使の二つの例外を除いて、あらゆる武力の行使と武力による威嚇が禁止されたのである。

 全ての国連加盟国は国連憲章遵守義務があるから、自衛権の行使の例外を除き、いかなる武力の行使も武力による威嚇もしないと、約束させられているのである。日本国憲法第9条はこの「国連憲章第二条」のコピー・アンド・ペースト(コピペ)と言っても過言ではない。もしノーベル平和賞を授与するなら、憲法9条ではなく、パリ不戦条約か国連憲章ではあるまいか。

 なぜ日本の憲法はこのようなコピペの文言を書かなくてはいけなかったのかというと、それは日本が戦争に負けたからである。日本さえ大人しくしていれば世界は平和であると信じられていた時期に、日本が戦勝国に押し付けられた結果であろう。だから、押しつけられたコピペを自分たちで改める憲法改正は、日本人が誇りを取り戻す大きな一歩となるのだ。

憲法は道具に過ぎない


 憲法9条はどのように読めばよいのか。特に9条2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とも規定しているが、日本は戦力を保持しないという割に、誰がどう見ても戦力にしか見えない自衛隊を保有している。にもかかわらず、交戦権を認めないというのだ。交戦権を認めないのでは、他国に攻め込まれても自衛隊は応戦することすらできないことになる。まして第一項では戦争の放棄を宣言しているのであるから、侵略を受けたら無抵抗のまま国を明け渡すことを明言しているに等しい。日本語の意味通りに解釈したら、そう読むしかないだろう。

 ただ、条文を日本語の辞書通りに読んでよいのであれば、法学者など必要ない。その法理が成立した背景と歴史、そして運用の実態や判例などを踏まえてテクニカルに読まなくてはいけない。

 ではどう読むか。まず、先述のとおり9条の文言は、明らかにパリ不戦条約から発展した国連憲章を焼き直したものであるが、不戦条約の締結過程では、自衛権が認められるべきことは繰り返し確認されている。また、国連憲章には安保理が措置を取るまでの間、自衛権を行使できると条文に明記されている。

 つまり、国連憲章は「戦争の放棄」を謳うも、それは侵略戦争を放棄するという意味であって、自衛戦争まで放棄するという意味ではないのであるから、憲法9条がいう戦争や武力行使の放棄も侵略戦争について述べているのであって、自衛戦争は否定していない、と読まなくてはいけない。政府見解はこの考えに立つ。

 第2項がいう「戦力」を保持しない、「交戦権」を認めないというのも、侵略戦争のための戦力や交戦権を認めないという意味であって、自衛戦争のための戦力や交戦権を否定するものではないのだ。自衛隊は侵略戦争をする戦力ではない、攻められたら押し返すだけの実力に過ぎないので「合憲」。これが政府見解の立場である。

 しかし、これでは、広く国民が理解することは難しいであろう。かといって、これまで眺めてきたような背景を無視して単に日本語の意味だけで読もうとすると、読む人によって様々な読み方ができてしまう。この点が憲法9条の最大の問題といえる。

 ならば、誰が読んでも大抵同じような解釈になるような分かりやすい文章に改めるべきではないか。具体的には「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争は放棄しない。侵略戦争を行う戦力は持たないが、自衛戦争のための戦力は保持する」というようなことを書けばよいのではないか。ただし、自衛戦争の名目で侵略戦争を始めることができないように、憲法の条文に自衛隊の海外派遣の条件を書き込んでおくとよいだろう。たとえそのように9条を書き換えたとしても、それは「戦争をしない国」から「戦争する国」に転換することを意味しないだろう。

 憲法は、現在と未来の日本国民が幸せになるために人間が作り出した道具に過ぎない。そして、人間は必ず不完全であるがゆえに、人間が作ったものもまた必ず不完全である。よって、憲法も必ず不完全であり、これを必要に応じて変更していくことは国民の幸せのために不可欠なのだ。

たけだ・つねやす 作家。昭和50(1975)年、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫。慶応義塾大学卒業、平成26年3月まで同大法学研究科講師も務めた。