上杉謙信も認めた真田幸隆の智謀


 戦国の真田氏といえば、まず思い浮かぶのは真田幸村(正しくは信繁)でしょう。来年の大河ドラマ「真田丸」の主人公でもあります。ドラマもいよいよクランクインしたということで楽しみですが、その幸村の活躍も、祖父の幸隆、父の昌幸の奮闘なしにはあり得ませんでした。

 「智謀は七日の後れあり」とは、かの上杉謙信が真田幸隆(幸綱)を評した言葉です。戦国最強武将ともいわれる謙信は、「我、弓を取らば真田に劣らぬが」と前置きをした上で、智謀面で敵方の武田の部将・真田幸隆の実力を認めました。

 また武田信玄は、若い頃から側近くに仕える真田昌幸(幸隆の3男)の器量を大いに買い、将来は武田の宿老にしたいと期待を寄せています。昌幸の2人の兄、真田信綱、昌輝も侍大将に取り立てられており、幸隆と3人の息子全員が武田二十六将図に描かれています。

 よく知られる武田二十四将図にも、図によってメンバーは異なりますが、4人のうち3人が入ることが多く、一つの家からこれだけ有力武将が輩出されているのは、粒ぞろいの武田家中においても珍しいことでした。しかも真田は幸隆が信玄に仕えて以来という、家臣としての経歴の浅い外様衆なのです。

 その一事だけを見ても、真田氏がいかに活躍をしたかが窺えようというもの。よく真田の活躍は伝説に拠るところが多く、過大評価されているのではという見方もありますが、今月号の巻頭にご登場頂いた歴史家の平山優先生は、一次史料を追っていくと、むしろ過少評価されているのではないかという思いすら抱く、という旨をご紹介されています。

 幸隆の生涯の転機を二つあげるとすれば、一つは間違いなく、天文10年(1541)の海野平合戦に敗れ、故郷である小県の真田の地を奪われ、流浪の身になったことでした。信州の真田といえば、山間の小さな集落をイメージします。しかし、幸隆は旧領回復を悲願とし続けました。なぜ、それほど真田にこだわったのか。

 実は真田の地は単なる山深い集落ではありません。当時において交通、物流の要地であり、全国の情報が集まる場所であったのです。この事実は、以後の幸隆・昌幸・幸村の活躍にも大きく関わるところであり、これについて今月号では時代考証家の山田順子先生が目から鱗が落ちる解説をして下さいました。

 さて、幸隆から故郷を奪ったのは、隣接する豪族・村上義清と、甲斐の武田信虎らでした。上州に逃れた幸隆は、関東管領上杉氏をあてにせず、武田信虎が息子の晴信(信玄)に追放され、晴信が村上義清との対決姿勢を取ると、仇敵であるにもかかわらず仕官するのです。

 故郷「真田」を回復するのは、武田に仕えることが最も現実的であるという判断からでした。しかし信玄は村上義清を相手に苦戦します。上田原の合戦で敗れ、さらに砥石城攻略をめぐる砥石崩れでは、その生涯最大ともいわれる大敗を喫しました。

 その信玄の苦境を救うことになるのが、幸隆でした。砥石崩れの翌年、天文20年(1551)に、幸隆は手勢のみで、しかもほとんど兵を損ずることなく、砥石城を攻略してのけるのです。この幸隆の手腕に信玄は感嘆し、褒美として幸隆は悲願の旧領回復を果たしました。

 力攻めではなく、調略をもって兵を損なわずに勝つ。これこそ情報戦略・諜報を得意とした真田ならではの戦法でした。謙信をうならせたのも、こうした幸隆の手腕であったのでしょう。


三大勢力を翻弄し、独立を勝ち取った真田昌幸



 一方、幸隆の3男・昌幸は、幼少より近習として信玄に仕え、信玄の軍略を間近に接しながら成長していきます。二人の兄がいるため、信玄は昌幸に甲斐の名族・武藤家を継がせ、昌幸は武藤喜兵衛尉昌幸と名乗りました。

 やがて元亀4年(1573)に信玄が西上途中で没し、翌年に幸隆も病没。そして天正3年(1575)に、武田家の一大転機が訪れます。長篠の合戦の大敗でした。

 そしてこの敗戦は、昌幸にも大きな変化をもたらします。長篠で二人の兄が討死したため、思いがけず昌幸は真田家に戻り、家督を継ぐことになったのでした。武田勝頼も真田家に対する信頼は厚く、昌幸は以後、勝頼を支えて奮闘することになります。

 しかし、武田家の凋落は止まらず、天正10年(1582)、織田信長によって武田家は滅ぼされました。ところがその直後、信長も本能寺で横死。この事態に、武田の旧領は周辺大名の草刈り場となり、そこに小勢力の真田家が呑み込まれることになります。

 すでに真田と、上州の岩櫃、沼田を結ぶ一帯を押さえた昌幸は、この所領を死守すべく、競合勢力とわたりあいました。織田家の滝川一益が関東を去ると、昌幸はまず上杉景勝に従い、次に北条氏直、徳川家康と次々と手切れと盟約を繰り返していきます。

 しかも昌幸は、大勢力に唯々諾々と従うのではなく、常にキーマンとしての立ち位置を確保しました。上杉と睨みあった北条が、次に徳川との対決に向かう際、上杉への押さえとなったのが昌幸であり、北条と対峙する徳川が、北条の後方を脅かす存在として期待したのも昌幸であったのです。

 さらに昌幸は、上杉の脅威を家康に訴え、徳川の力を借りて、上田の尼ヶ淵(海士淵)に上杉に備える兵力を配置できる新城を築きました。これが上田城です。徳川の力を利用して、まんまと新拠点を獲得したわけです。

 そして家康が北条との取り決めで、上州の沼田城を北条に譲るよう命じると、昌幸は迷わずに家康と手切れ。上杉に再び従うことを望みました。そして、これに怒った家康が上田攻めに踏み切り、第一次上田合戦が勃発。昌幸は鮮やかな采配で大軍の徳川勢を翻弄し、撃退してのけるのです。

 さらに昌幸は羽柴秀吉と誼を通じ、秀吉の声がかりで信州の争乱は停止となり、昌幸は独立大名の座を得ました。その手腕は、見事の一語ではないでしょうか。こうした昌幸の姿を見て育つのが、息子の信幸と幸村(信繁)なのです。

 旧領回復の悲願を成し遂げ、武田信玄から深く信頼された真田幸隆。信玄亡き後の武田家を支え、武田家滅亡後は見事な手腕で独立大名の座を勝ち取った真田昌幸。この父子が伝える、真田の智謀の真髄とは何か、幸村は二人から何を継承したのかを、ぜひ今月号の総力特集「真田幸隆と昌幸」から読み取って頂ければ幸いです(辰)