徳川勢の前線基地のはずだった上田城

 

 天正11年(1583)4月13日、越後の上杉景勝は、家臣である北信濃の島津左京亮に書状を送りました。直江兼続の添え状も合わせたその内容は、次のようなものです。

 「真田昌幸が海士淵〈あまがふち〉に臨む崖上に寄居〈よりい〉(城塞)を築き始めたと、海津城より報告を受けた。そこで北信濃4郡全域の武士を虚空蔵山に集め、築城を妨害すべく真田を攻めることにする。ついては島津左京亮には、検使(監視役)を務めてもらいたい」

 当時、太郎山から西に続く虚空蔵山の北まで、上杉氏の支配が及んでいました。昌幸が築き始めた新城はその数キロ先、まさに目の前であり、上杉方は危険視したのです。この城が、昌幸が従っている徳川家康勢の前線基地になるであろうということからでした。

 実際、築城にあたって昌幸は、徳川家康の許可と援助を請い、家康より「近辺の城主へ望みの通り、人夫など助成申すように」と、後押しの確約を得ています(『真武内伝』)。

 これは家康が、昌幸の上田築城が、上杉勢力圏である北信濃4郡に対する、徳川方の重要拠点に成り得ると判断したからに他なりません。もちろん、昌幸もそれを織り込んだ上での援助依頼でした。

 そして昌幸は3月下旬、虚空蔵山を攻め、守備していた上杉勢を追い払いました。上杉景勝が、虚空蔵山に北信濃4郡の兵を集めることを命じたのは、この後のことです。

 上田築城は、天正11年4月10日頃、徳川全体の事業として始められたと見られます。工事には昌幸以下の小県〈ちいさがた〉の者はもちろん、大久保忠世配下の佐久勢やその他の徳川勢も参加し、突貫工事で進められました。

 一方、虚空蔵山に北信濃の兵力を集めた上杉勢は、筑摩郡北端の麻績〈おみ〉城に小笠原貞慶が攻め寄せたため、急きょ、そちらに転戦(従来は翌年とされてきました)。また国許で新発田氏が蠢動し、さらに上田築城に大久保忠世ら徳川勢が本格的に関与しているのを見て、うかつには手を出せませんでした。以後も虚空蔵山から睨むに留まるのです。

 おそらく昌幸は、上杉のそうした事情もある程度、読んでいたのでしょう。思惑通り、上田城は着々と築かれました。そして天正13年(1585)、上田城は一応の完成を見たのです。

 

上杉方にとっても重要拠点となった上田城

 

上田城

 ところで当時、上田城は、上田城と呼ばれていません。最初は「伊勢崎城」と呼ばれていました。昌幸はその頃、砥石城麓の伊勢山に居所を置いており、千曲河畔に築いた伊勢山の崎の城ということで、伊勢崎と称したのではともいわれます。

 昌幸が伊勢崎城から上田城に名を改めたのは、一説に天正17年(1589)。そうであるならば、それより以前の第一次上田合戦は、本来、伊勢崎合戦になるのかもしれませんね。

 さて、天正12年(1584)、羽柴秀吉と小牧・長久手合戦に入った家康は、北条氏と和睦した際の条件であった上野国沼田城の譲渡を、北条氏から迫られます。沼田城は、昌幸の城でした。

 家康はそれについて昌幸に打診しますが、昌幸はこれを拒否。立腹した家康は、小県の国人領主・室賀氏に昌幸暗殺を命じますが、これを見破った昌幸が逆に室賀氏を討ちました。

 そして近々、家康と手切れになると見た昌幸は、上田築城をめぐって対立した上杉景勝に接近していきます。翌天正13年4月、家康からの正式の使者に対して昌幸は「沼田は家康公より拝領した城ではなく、われらが血を流して勝ち取った城。北条に渡すいわれはない」と、完全に徳川と手を切りました。

 7月15日、上杉景勝は昌幸の帰順を認め、援軍派遣も約束しました。景勝が度々煮え湯を呑まされた昌幸の帰順を許した背景には、生き残りを賭けた武士としての昌幸の気概をよしとしたことに加え、おそらくは上田城の存在価値があったでしょう。

 閏8月2日から始まる第一次上田合戦は、後顧の憂いのなくなった昌幸の変幻自在の戦術で、見事に徳川の大軍を撃退しました。かつて築城に力を貸した大久保忠世らにすれば、勝手を知ったはずの城で翻弄されたことに、口惜しさが倍増したことでしょう。

 敗れてもあきらめきれぬ徳川勢がまだ佐久に陣を布いて、上田の様子を窺っていた9月下旬から10月、上杉景勝は北信濃の武将を動員して、改めて上田城の普請を行ないました。かなり大規模に行なわれたようで、動員された島津忠直が直江兼続に宛てた書状には次のようにあります。

 「伊勢崎御普請寸隙〈すんげき〉も油断を存ぜずこれを致し候、近日成就仕〈つかまつ〉るべく候」

 上田城が、上杉氏にとってもそれだけ重要な拠点であったことが窺えます。佐久までを勢力下に押さえた徳川と、更埴地方までを勢力下とする上杉氏がぶつかる最前線が小県地方、すなわち上田城でした。まさに最前線の最重要拠点であり、上田城は単なる真田氏の居城ではなかったといえるでしょう。

 しかし同年冬、上杉氏の人質となっていた次男信繁(幸村)を大坂に出仕させた昌幸は、羽柴秀吉に臣従、独立大名として認められることになります。これは上杉景勝にとっては寝耳に水のことで、また翌年、改めて真田を攻めようとした家康も、秀吉によって調停されました。

 こうして見るとやはり、本能寺の変から始まる信濃の大乱の中で、常にキーマンとしてキャスティングボートを握っていたのは、真田昌幸であったように思われます。

 それにしても徳川や上杉の力を借りて難攻不落の城を築かせ、それをすべて我が物とした昌幸の深謀遠慮、読みの深さ、そしてしたたかさは、見事の一語に尽きるのではないでしょうか(辰)

※寺島隆史「上田築城と城下町の形成」他を参考にさせて頂きました