豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣で、徳川方の「独眼竜」伊達政宗隊の先鋒隊長、片倉小十郎重綱は「鬼の小十郎」と恐れられた。慶長20(1615)年の夏の陣で、徳川家康が最も警戒した後藤又兵衛ら豪傑を相次いで倒し、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と呼ばれた真田信繁(幸村)の赤備え隊とも激闘を繰り広げた。幸村から幼子たちを託されるほど知勇兼備の将と見込まれたのだ。(川西健士郎)

 片倉小十郎といえば、昭和62年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で西郷輝彦が演じた重綱の父、片倉小十郎景綱の名がまず上がるだろう。景綱は10歳年下の政宗の名参謀として奥羽制覇への道を切り開く。

 天正12(1584)年に誕生した重綱。美男だったと史書に記され、大河ドラマでは高嶋政宏が演じた。勇猛な逸話も多い。

 慶長5(1600)年、家康の東軍についた政宗は上杉景勝の領地だった白石城(宮城県白石市)を攻めた。当時15歳の重綱は留守を命じられていたが、戦場に駆けつけて果敢に石垣を攻め登ったと伝わる。奪った白石城には景綱が1万3千石の城主として入り、片倉家が代々城主を務めた。

 大坂の陣では病床の景綱に代わり、重綱が初めて片倉隊を率いる。勇名をとどろかせたのは慶長20年5月6日の道明寺の戦い(夏の陣)だ。

 徳川方の大軍は小松山を占拠した「大坂五人衆」の一人、後藤又兵衛の隊を攻めあぐねていたが、片倉隊は正午近くに一気に後藤隊を襲い、ついに又兵衛を打ち倒す。

 伊達の兵力1万のうち片倉隊は1千。「鉄砲300丁、槍200本、弓100張の混成騎馬隊で、景綱と戦場をともにしてきた歴戦の兵士も多かった」と、白石市生涯学習課の日下和寿学芸員は話す。
片倉小十郎重綱と真田幸村の戦いの舞台となった誉田八幡宮に立つ「誉田林古戦場」の碑=大阪府羽曳野市
 片倉隊は小松山を越え、石川を渡り、大坂一の怪力とうたわれた豪傑の薄田(すすきだ)隼人も倒す。そして目前に真田幸村隊が現れた。片倉隊はあられのような銃撃を加え、真田隊を壊乱状態に陥れる。

 が、ここから幸村の知略が炸裂する。幸村は兵を並べて草の上に伏せる。兜(かぶと)を脱がせ、槍も置かせた。猛烈な射撃の中、幸村は姿勢を保つよう前線で励ます。そして片倉隊が約1キロに迫ったとき、兵に兜を着けさせ、約200メートルで槍を持たせた。

 〈勇勢新ニ加テ兵気愈盛ニナル〉

 『正武将感状記』は兜をつけたときの士気の高まりを強調しており、戦場心理を熟知した幸村の「心理作戦」だったといわれる。

 片倉隊が目の前に迫ったとき、幸村は兵を一斉に立ち上がらせ、突撃を加えた。今度は片倉隊が総崩れとなった。

 〈手つから太刀打し敵四騎斬落す〉

 『片倉代々記』は、重綱自らが太刀を持って奮戦したと記す。「幸村が一枚上手だったが片倉隊は何とか持ちこたえ、重綱は名を高めた」と日下氏。互いの戦闘力を知り、両者は深追いせずに退却する。

 翌日、家康の本陣に切り込んで戦死する幸村は器量を見込んだ重綱に孤児を託し、意気に感じた重綱はこれを引き取ったと伝わる。孤児たちは白石城で養育され、娘の阿梅(おうめ)は重綱の後妻となり、次男の大八は伊達藩士に取り立てられた。