石原千秋(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)

 10月8日、2015年のノーベル文学賞の発表があった。今年も村上春樹の受賞はなかった。

 多くの人がそう思っているにちがいないが、ノーベル文学賞はノーベル民主主義普及賞みたいなところがあるから、独裁的な国で迫害でもされていないとなかなか受賞できないようだ。だから村上春樹の受賞は当分なくて、きっとみんなが「あれッ、村上春樹はやっぱり受賞するんだ」と思う頃にならないと、受賞しないと思う。もっとも、これはその頃には日本もいっぱしの独裁国家になっているだろうという意味では、最近少し怪しい風が吹いているが、とりあえずない。

 僕には『風の歌を聴け』から『ノルウェイの森』までを論じた『謎とき 村上春樹』という新書がある。これは早稲田大学での講義を録音してもらって、本にしたものだ。依頼を受けたのがこの講義の3年目だったので、そろそろという気持ちになったのだった。そのあとも『ダンス・ダンス・ダンス』以降の小説を講義してそのノートもあるのだが、なんとなく本にする気にはなれないでいる。ただ、『ノルウェイの森』でふくらみすぎた「村上春樹の読者」を適正規模にまで縮小する試みが『ダンス・ダンス・ダンス』にはあったのだろうという確信だけはある。「羊三部作」を読んでいなければわからないところがあるのだから。

 『海辺のカフカ』のわがままにもつきあったし(もっとも、蜷川幸雄演出の舞台の方がよかったような気がする)、遅れてきた世界系と揶揄されても『1Q84』も楽しんだ。ただ、そのころからやたらと村上春樹を論じる人が多くなって、僕は村上春樹の専門家ではないから、「ちょっと手に負えないなあ」と思うようになったわけだ。それに、ここ数年の小説は質が落ちてきているようにも感じるし、村上春樹が外国で行うスピーチが「正しすぎて」、どうもしっくりこないのだ。一方で、そのころから村上春樹が毎年ノーベル文学賞候補と見なされるようになってきた。

 村上春樹文学に出てくる「正しい」という言葉には二通りの意味合いがありそうだ。一つは、『ノルウェイの森』に出てくる「正しさ」だ。

 その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。

閉店後の書店内に並べられる村上春樹さんの長編小説「1Q84」の
「BOOK3」=2010年4月15日、東京都新宿区の紀伊国屋書店
 この奇妙な「正しさ」は、「僕って何」という問いを喚起するものだと言っていい。これを「純文学的正しさ」とでも呼んでおこうか。もう一つは、例は挙げないが『1Q84』のBOOK2までに14回出てくる「正しさ」で、ほぼ一般の「正義」という意味合いで使われている。これは「娯楽小説的正しさ」とても呼んでおこうか。僕が村上春樹のスピーチにしっくりこないのは、それが「娯楽小説的正しさ」に偏りすぎているからだと思っている。僕が村上春樹文学に読みたいのはどちらかと言えば「純文学的正しさ」だし、村上春樹のスピーチに聞きたいのも「純文学的正しさ」なのだ。世界の読者もそう思っているのではないだろうか。

 村上春樹は、デビューから35年たった今でもほとんど文体の変わらない希有な作家だ。村上春樹文学の読者はいつも村上春樹の文体を読みたがっているだろう。これは、小説家として大変な強みだ。ただ、文体はただの器ではなく、文学そのものでもある。ある文体で書けることと書けないことがある。だとすると、村上春樹の文体では書けないこともある、と言うか、似合わないことがある。それが「娯楽小説的正しさ」なのではないかと思っている。村上春樹文学と暴力はよく指摘されるテーマだが、村上春樹文学の暴力は、あの文体ではなめらかすぎて暴力としての凶暴さのようなものをあまり感じさせない。これは大きな弱点でもある。村上春樹の文体は諸刃の剣なのである。

 谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫。これまでノーベル文学賞を受賞したか候補に挙がっていたと言われる小説家の文学にはある共通点がある。それは、「日本」を感じさせ、かつ「女の体」を書いた小説家だったという点だ。大江健三郎にしても、「レインツリー」系の「地球に優しく」の日本版のようなテイストがなければ、ノーベル文学賞を受賞したかどうか。ところが、村上春樹文学は「女の体」と言えばほぼ「形のいい乳房」に局所化されているし、「日本」をほとんど感じさせないとは、外国人がよく言うことだ。だからこそ世界中で読まれているのだろうが、それは「日本文学」ではなく、「たまたま日本で書かれた文学」として、「世界文学」の土俵で勝負しなければならないことをも意味する。だから、村上春樹がノーベル文学賞を受賞するとしたら、「世界文学」として評価されたときだろう。

 最新刊の『職業としての小説家』には「文学賞について」という章がある。この章を読むと、村上春樹が「芥川賞を取れなかった作家だということを気にしていると思われることを気にしている」ことがよくわかる。でも「ノーベル文学賞を取れなかった作家だということを気にしていると思われることを気にしている」小説家にはなってほしくはない。村上春樹の文体で奇妙な「純文学的正しさ」をもっと書いてほしい。それが「世界文学」だと思う。村上春樹に似合うのは芥川賞ではなく、ノーベル文学賞だけなのだから。