村上春樹 32年前の「最高傑作」で日中関係暗示していたとの評

『NEWSポストセブン』 2012.10.13

読了まで4分

 惜しくもノーベル賞は逃したものの、村上春樹氏が現代の日本文学を代表する作家であることに違いはない。世界を惹きつける村上ワールドの魅力はどこにあるのか。作家で五感生活研究所の山下柚実氏が考察する。

* * *

「(領土問題は)安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ」

 朝日新聞(2012.9.28)に寄稿された村上春樹氏のエッセイは、国内のみならず、世界中で反響を呼びました。反日感情溢れる中国のツイッターにさえ、共感を含めコメントがたくさん書かれたそうです。複雑な歴史、錯綜する感情、政治的駆け引き、損得勘定。そんなにも対立する国家、こんがらがった領土問題を、手のひらの上に載せてみせる。読み手の腑に落とす。少なくとも、国際関係を理解できたかのように読者に飲み込ませる。それが、「安酒の酔い」というレトリック表現の力です。

 複雑な出来事を、大論文や大演説ではない、別の言葉を使って表現する行為。  レトリックは、理解しがたい出来事に対して新鮮な見方やスリリングな接近の楽しさを与えてくれます。こんがらがった糸がするすると解けていくような心地よさも、感じさせてくれます。もはや、政治家の大演説やリーダーシップによって国際関係のねじれや対立を「収め」たり「理解」していく時代は終わろうとしているのかもしれません。村上氏の「書く技術」は、そのことを告げてはいないでしょうか。

 この作家の魅力の一つは、レトリックがとびぬけて秀逸で斬新なこと。そして、描く対象と作家自身とが絶妙な距離を保っていることです。初期の『羊をめぐる冒険』から大ベストセラー『ノルウェーの森』、近作『1Q84』まで。数々の長編作品が世界中で話題を集めていますが、その真骨頂は、長い演説のようになりがちな恋愛長編小説よりも、むしろ、人と人、人と社会との関係を一瞬に、そして鮮やかに切り取る短編小説にこそ詰まっている――私はそう思います。  

アジア・アフリカ会議、日中首脳会談を前に握手する安倍首相(左)と中国の習近平主席=2015年5月22日、ジャカルタ(共同)
 あなたにとって村上作品の最高傑作は何か?と聞かれたら、私は迷わずこう答えます。

「中国行きのスロウ・ボート」(1980年4月 『海』)と。

 大都会で、たまたま言葉を交わすことになった男と女。もう一度会いたいと念じて、人混みから必死に彼女の姿を捜し出し、連絡先を書き留めたのに、運命のいたずらでもう二度と会えなくなる二人。一人は中国人、一人は日本人。小説の終盤に、こんなフレーズが。

「空白の水平線上にいつか姿を現すかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その緑なす草原を想おう」

 そして「友よ、中国はあまりに遠い」という言葉で、この小説は幕を閉じます。

 32年前に書かれた一編の短い小説。日中関係についての早すぎた暗示を、もう一度じっくりと読み返し、噛みしめるべき時が来たのかもしれません。

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