市川真人(文芸批評家、早稲田大学文学学術院准教授)

 iRONNA読者のみなさま、おひさしぶりです。いえ、前回はじめてお邪魔したのが「『火花』は芥川賞にふさわしいのか」というお題のときでしたから、そう昔でもないですね。今回のお題は「村上春樹とノーベル文学賞」。ずいぶん大きく出ました。日本の新人賞から世界のノーベル賞へ、とすれば次は宇宙でしょうか……と冗談はさておき、どうぞ此度もお手柔らかに。

 さて、今回の依頼は正確には「毎年有力と言われるのに、村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか。他の受賞作と比べて受賞にふさわしいのかどうか」でした。残念ながらその問いには、前回以上に答えがありません。

 『火花』のときには、あまりに身も蓋もないので「立派な文学者になりそうな小説家を、複数の選考委員が合議で選ぶ」とだけ書きましたが、数学の公式や歴史のテストと違って、文学の価値判断には「これをクリアしていればマル」とか「~年の出来事だ」のような計量しやすい基準がない。極端に、かつ平たく言えば「どれほど強くひとの心を打つか」かもしれませんが、それは一にも二にも「ひと」次第。あるひとなら号泣するお話が、別のひとにはわざとらしくて鼻白むだけ、ということもよくあります。「小説の書き方もテクノロジーのひとつ」と考えれば過去の蓄積や達成を踏まえた稀有な実験も生まれますし、リズムや音の運びがとんでもなく音楽的な(つまり、物語を語っているのに、まるで歌っているように感じる)作品は、身体に直接訴えかけてきますが、それらがどれだけすごいかは、なかなかいまこの世の中の価値観だけで決めることはできない。『銀河鉄道の夜』の宮澤賢治だって、『変身』のフランツ・カフカだって、作品の価値が大きく評価されたのは、彼らの死後ずいぶん時間がたってからです。その意味では、文学作品の普遍的な価値があるとしたら、ひとつは時間的にどれだけ遠く(未来)に届くか、でしょう。

 ところがこれは、生きている僕たちにはせいぜい半世紀分くらいのことしかわからない。たとえば、半世紀前の1965年に登場した小説で今も私たちの記憶に残るのは、筒井康隆『時をかける少女』や井伏鱒二『黒い雨』などですが、前者はもはや映画のイメージが強いし、後者は教科書に載らなくなりました。時間の洗礼に耐えるのは、ことほどさように難しい。海外や前後の年に目を向ければ、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』とか大江健三郎『個人的な体験』、ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』などが出ています。これらの特徴は、翻訳されて読まれていることで、空間的にも遠く(海外)に届いた文学、ということになります。ふりかえって、「どれほど強くひとの心を打つか」も、言わば心の奥底まで届いたことと考えれば(たとえ目の前の一人の読者であっても)、「遠くまで行く強さ」こそが優れた文学の条件、としてもよいかもしれません。

 とはいえこれは一般論、抽象的な話で申し訳ないですが、ノーベル文学賞については審査基準も公開されていなければ、誰が候補だったかも明らかにされないので、それ以上のことは(とくに、この短い枚数では)なかなか言えない。半世紀後に最終候補だけは公開されますから(たとえば2013年には、三島由紀夫が1963年の候補だったことがわかりました)、その意味でも、半世紀後に名前が出て誰だかすぐわかり、願わくばそのときにも読まれているだろう作家を選んでいるだろうことだけは想像できますが、それ以上のことはわかりません。専門的知識の量や比較対象の数など、選考にかけた人的・時間的コストの多寡による精度差こそあれ、そもそも賞などひとが決めるものですから、どんな賞でも作品そのものの価値に勝るものではない(とはいえノーベル文学賞は、他の諸分野の賞との緊張関係の大きさや、選考の対象とする作家や作品の多さ、かかわるひとの数、短い期間の商業性や娯楽性に惑わされずに普遍性とポリシーを重視している点で、稀有な賞ですが)。

 村上春樹自身が、最近出した『職業としての小説家』という自伝的エッセイのなかで、かつてとり損ねた芥川賞について『村上春樹はなぜ芥川賞をとれなかったか』みたいな本が出るほど世間の人が気にするのはなぜか不思議だと語っていましたし、「(自分に意味あるものを生み出している手応えと、その意味を正当に評価してくれる読者がいれば)作家にとっては賞なんてどうでもいいもの」だと書いていますから、ノーベル文学賞について「なぜ取れないのか、ふさわしいのか」と問うことも、少なくとも本人にとっては余計なお世話でしょう(そもそも候補だったかどうかもわからないわけですから)。

 ……というわけで「お題については以上で終わり」というしかないのですが、ここまで書いてきてひとつ、ぼくも不思議に思うことがあります。「村上春樹がノーベル賞を取れるかどうか」を、なぜ世間はこれほど気にするのでしょうか。

小説家の村上春樹氏がノーベル文学賞受賞を逃し、発表用に展示していた看板を片付ける書店員=2015年10月8日午後、東京都新宿区の紀伊国屋書店(鴨川一也撮影)
 ここ数年(正確には、彼がフランツ・カフカ賞という、直近2年にその賞の受賞者が続けてノーベル文学賞を獲っていた賞をもらった2006年から次第に盛り上がり、イギリスのブックメーカーのオッズが一桁になったここ数年がピークですが)、毎年この時期になると日本のマスコミは、「今年こそ村上春樹がノーベル文学賞か!?」と大騒ぎをします。かつて村上さんが通った大学の学部で教えていて、若いころの村上さんも編集委員をしていた「早稲田文学」という文芸雑誌にかかわっているからでしょうか、ぼくのところにも「受賞したらコメントを」とか「番組で解説を」といった事前の依頼がたくさんあって、お仕事として引き受けながらもその熱狂をどこか不思議に思わずにはいられません。

 さきほど書いたとおり、優れた文学作品であることの資格は、それが時間的にも空間的にも、そしてひとりの読者の心の中的にも、強く「遠く」に届くことです。少なくとも、国際的な賞かつ多ジャンルの業績を讃える「ノーベル賞」は、出版社や書店が主催する数々の賞とは比べようもなく、存在意義がその点にあります。だとしたら、「私たちの国の、私たちのよく知っているあの村上春樹が、今年こそ受賞するかも!」という期待のありかたは、そもそも賞のスタイルとあまり合っていない気がします。

 もちろん、それを「お祭り騒ぎ」と考えれば、どんな理由であれ騒いで楽しむ側は自由にやればよい、ということはできます(マスコミはしばしば、そういう役目を担います)。オリンピックを例に考えれば、ときに対立の理由となるナショナリズムもそのようなカタチでの発露なら、ギスギスすることなく、試合後には異国や異文化のひとと親しく手を握って、試合前より仲良くなるよい機会かもしれません(事実、ノーベル文学賞を別の国のひとがとったからといって、その国を恨んだりはしませんよね)。また、文学作品の多くがまずは書き手の母語で書かれることを思えば、同じ言葉を母語とするひとたちが(必ずしも「母国語」でなくてよいのですが)、そのことを誇りと思うことも悪くないことだと思います。

 けれど、先に書いたように「優れた文学」の条件を、「今ここ」からなるべく遠く離れたところに届くことと考えたり、ましてノーベル文学賞の性質から考えれば、毎年毎年、村上春樹の受賞の有無に一喜一憂するだけではやや本末転倒というか、ちょっともったいない気がします。村上さんの受賞に関心を持ったり期待したひとが、がっかりする反面、「私たちのよく知る村上春樹より先に賞をもらった作家はどんなひとで、どんな作品を書いたのだろう」と興味を持つきっかけになり、いままで読んだことのなかった作品を読むことができたら、それこそ、その作品が「遠くに届いた」ことになって、ノーベル文学賞も本望ではないでしょうか。

 今年の受賞者である、ベラルーシのスベトラーナ・アレクシェービッチは、いわゆる小説家ではなくジャーナリスト、ノンフィクションの書き手ですが、すばらしく感動的な文章の持ち主です。戦争に巻き込まれた女性たちや子どもたちはどこでどう生きたのか、チェルノブイリの事故でヨーロッパを救うために亡くなった消防士や軍人たちの家族は、なにを感じなにに祈るのか。村上春樹の最高傑作『ねじ巻き鳥クロニクル』や地下鉄サリン事件を描いた『アンダーグラウンド』とも並べ読んで、私たちの「今ここ」と彼女たちの「遠いそこ」を結びつけることができれば、「祭りのあと」が空しくなることもなく、次の「祭り」までの時間を待てるかもしれませんね。

 そうそう、書き忘れました。村上さんが「そういう本が出版されることが不思議」と書いていた『村上春樹はなぜ芥川賞をとれなかったか』という本は、正確には『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』というタイトルです(与えられなかったか、には受動と可能、ふたつの意味が入っています)。書いた本人が言うのだから、間違いありません。中身にはじつはそれほど村上春樹のことは書いていなくて(賞なんて、しょせんひとが与えるものですから)、そのことを分析するほかに、日本の近代の「小説」がどういう育ち方をしたかだとか、なぜ太宰治の「走れメロス」にひとが感動してしまうのかとか、夏目漱石の「坊っちゃん」の主人公はどうしておばあちゃんにメロメロなのか、といった話が書いてあります。

 村上さんは「恥ずかしくてとても本人は買えません」と書いていましたし、ぼくも「村上春樹をきっかけにして、他の作品にも興味を持ってもらおう」と思ってそんな題をつけたので、村上さんにはちょっと申し訳なくて読ませられませんが、「毎年有力と言われるのに、村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか。他の受賞作と比べて受賞にふさわしいのかどうか」についてのヒントがもう少し欲しい読者の方は――ノーベル賞についてはその本には書いていないので、ほんとうは来年あたり出す『ノーベル文学賞はなぜ村上春樹に(以下略)』という続編を待っていただくしかないですが、それまでのあいだ――、手にとってみていただければさいわいです。

 ではでは、またいずれお邪魔します。さようなら。