戦国を生き抜いた小大名の知略 


 長野県真田(さなだ)町。上田市から菅平(すがだいら)高原に向かう谷沿いに広がるこの町は、その名からも分かるように、戦国大名・真田氏ゆかりの郷である。案内板など町のあちこちに真田の家紋・六文銭が描かれ、マンホールには真田十勇士の絵も。真田の武勇が今も、町民の誇りになっていることがよくわかる。

 町の入り口には『真田太平記』を書いた作家、池波正太郎の筆による「真田氏発祥の郷」の碑が立つ。碑の横には、昌幸と2人の息子、信之、幸村のレリーフが並んでいる。

 徳川の大軍を2度も破った軍略家で知られる昌幸は、天下分け目の関ケ原の戦いで、次男・幸村とともに西軍に属し、嫡子・信之は東軍に加わった。戦後、信之が真田の家名を保ったことで、昌幸の選択は、小大名の生き残る知恵と考えられた。

 しかし、徳川家に対する罪人として生涯を終えた昌幸の死後、幸村は大坂の陣で、勝ち目の薄い豊臣方に走り、敗死している。そこに見えるのは、徳川幕府に従った信之とは対照的な武門の意地だ。戦国武将・昌幸が2人の息子に伝えたものは、果たして何だったのだろうか。

かわいい子は旅に

 真田氏は鎌倉時代に真田郷に土着した豪族で、昌幸の父、幸隆の代に宗家、海野棟綱の女婿になったといわれる。

 幸隆は30歳のころから62歳で死ぬまで、武田氏に属し、川中島の戦いなどで活躍。相手側の懐柔や諜報を得意とした。

 昌幸は幸隆が35歳のころ、その三男として生まれ、7歳で武田信玄の近侍(きんじ)(主君の近くに仕える家来)になった。幸隆は代わりに上田付近の土地を与えられており、昌幸は人質に出されたようなものだった。

 昌幸は、信玄から軍略を学び、沼田城(群馬県)の攻略などに武功をあげた。天正3(1575)年、長篠(ながしの)の戦いで兄2人が戦死したため、独立して家を継いだ。

 天正10(1582)年、信玄の子、勝頼が、織田信長に滅ぼされると、昌幸は信長に臣従し、わずか3カ月後に信長が死ぬと北条氏に、その2カ月後には北条・上杉の圧力に抗するために徳川家康に属した。主を転々と代える昌幸には、大勢力の狭間で、懸命に生きる道を模索する小大名の宿命が垣間見える。
高野山の宿坊、蓮華定院。真田昌幸・幸村父子は関ケ原の合戦後、この寺に身を寄せ、後に九度山に移った=和歌山県高野町
高野山の宿坊、蓮華定院。真田昌幸・幸村父子は関ケ原の合戦後、この寺に身を寄せ、後に九度山に移った=和歌山県高野町
 徳川家では新参の昌幸はさらに苦汁をのまされる。天正11(1583)年、家康が北条氏と和し、沼田領の返上を迫られるのである。

 昌幸にとって沼田は、家康から与えられた所領ではない。戦国武将として攻め取った「一所懸命(いっしょけんめい)」の土地である。昌幸は、家康の命を拒否した。同時に、幸村を上杉景勝に人質として出し講和する一方、上田城で信之とともに、徳川の大軍を撃退した。城下の各地に徳川勢を分断して誘い込み、打ち破った戦術は昌幸の武名を天下に広めた。

 武門の意地を見せ、面目を保った昌幸の次の手は、天下人の傘下に入ることだった。頼る先は豊臣秀吉。昌幸は、わずか1年で幸村を景勝の元から呼び戻し、秀吉の元に送った。

 留守の間に幸村を失った景勝は驚き、秀吉に「きっと返し給わらん」とねじこんだという。昌幸の手際の良さとともに、幸村の才能が早くから買われていたことを示す逸話である。

 昌幸は天正17(1589)年には、秀吉に命じられて、信之を家康に出仕させている。自らが、信玄の人質に出されて武略を磨いたこともあってか、息子を人質に出すことにはさほど抵抗がなかったようだ。

 ここで注目したいのは、天下人・秀吉のもとに、嫡子の信之ではなく幸村を送っていることだ。

 「昌幸は、幸村というかわいい子には旅をさせた、ということでしょうか」

 真田宝物館(長野市)などを管理する松代藩文化施設管理事務所の原田和彦学芸員は、昌幸が特に、幸村に目をかけていたと推察する。昌幸の死後、大坂の陣に臨んだ幸村の心中を理解するカギはおそらく、このあたりの機微にあるのであろう。

「犬伏の別れ」

 慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの直前、昌幸・幸村が信之と別れた場面は、「犬伏(いぬぶし)の別れ」として知られる。犬伏(栃木県佐野市)は当時、宿場町で、昌幸は家康の子、秀忠の指揮下、会津の上杉景勝征伐に行く道中だった。

 そのもとに、豊臣三奉行から、家康討伐の計画と西軍への忠節を求める手紙が届く。昌幸は、2人の息子を呼んで相談した。余りにも長時間だったため、様子を見に来た家臣が、昌幸からゲタを投げつけられたという。信之を東軍に残し、幸村とともに西軍についた昌幸の決断が、苦悩の末だったことがうかがえる。

 この有名な別れは、江戸時代の真田軍談などで、昌幸や幸村が豊臣家に忠義を尽くそうとしたから、とされた。しかし、真田家を研究する小林計一郎・信州短大名誉教授は、別れの原因を忠義と見ることを否定している。昨年、共著出版した『戦国・江戸 真田一族』(新人物往来社)では、「戦国時代を生き抜いてきた一族にとって、家の興亡こそが真の関心ごとだった」とつづっている。

 「武士たる者は、(中略)かようの時節にのぞみ、家をも興し、大望を遂げようと思う」

 『滋野世記(しげのせいき)』にある昌幸の言葉が、その根拠だ。

 上田市立博物館の寺島隆史館長補佐も「武士は二君につかえず、といった忠義の思想は江戸時代にできたもの」と言い切る。さらに、家系を守るために計画的に息子を東西に分けたという説についても、「結果的にはそうなったが、意図的に狙ったのか、文献もなく分からない」と言う。
 「犬伏の別れ」には今も謎が多いのは確かだが、昌幸の苦悩と野望を、2人の息子が目の当たりにしたことは間違いない。

息子の適性見抜いた稀代の策士


 真田親子の「犬伏の別れ」が、忠義からでも家系を残す計算からでもなかったとすれば、父と2人の息子はそれぞれ、どのような思いでその道を受け止めたのだろう。

 息子2人については、ほとんどの研究者の考えが一致している。それぞれが、出仕していた側と姻戚関係にあったため、仕方なく受け止めたという説だ。

 昌幸の嫡子・信之は東軍の徳川家康の家臣、本多忠勝の娘を妻とし、次男の幸村は西軍の奉行、大谷吉継の娘をめとっていた。特に信之は、家康の思慮深さや先見の明を目の当たりにし、東軍の勝利も見越していたといわれる。

 不明なのは昌幸が、どういう気持ちで西軍に寝返ったかである。昌幸は、西軍の宇田頼次に娘を嫁がせており、寝返りを誘う密使を送ってきた石田三成とも姻戚関係があった。しかし、西軍は当時、有利とはいえなかったし、西軍に寝返った東軍側の大名は、昌幸以外になかった。

 その心中について、小林計一郎・信州短大名誉教授は『戦国・江戸 真田一族』(新人物往来社)の中で「家康と本質的にあわない何物かがあって、その反発心が昌幸を石田方に向かわせたのだろう」と記している。長野県上田市立博物館の寺島隆史館長補佐も「徳川に対する複雑な感情があった」と話す。自ら武力で取った沼田領を家康が、秀吉との講和という政治手段で奪ったことなどが、その原因とみられる。昌幸の武将としての意地が、家康にくみすることを許さなかったのであろう。

上田城で与えた試練

 長野市の真田宝物館は、真田家の家督を継いだ信之が藩祖となった松代(長野市)藩ゆかりの品を保存、展示している。その一つ、真田家文書は、松代藩の家宝として伝わる吉光御腰物箪笥(たんす)箱に収められている。文書のほとんどは、昌幸の足跡を示すものである。

 その一枚に、三成から昌幸・信之・幸村にあてた書状がある。日付は慶長5年8月5日。「犬伏の別れ」(慶長5年7月21日)から半月後。関ケ原の戦いの約40日前である。

 「つまり昌幸は、犬伏の別れから半月後以降に、それまで受け取った書状を信之に伝え、自分は西軍につくことを最終決断した」と、真田宝物館などを管理運営する松代藩文化施設管理事務所の原田和彦学芸員は言う。昌幸が由緒ある書状を信之に渡したことは、真田家の行く末を信之に託したことを意味した。

 昌幸は信之と別れた後、幸村とともに上田城に篭もり、徳川の精鋭を率いて関ケ原に向かう家康の子、秀忠を10日間にわたって足止めし、家康をあわてふためかせた。
江戸時代から残る上田城の西櫓
江戸時代から残る上田城の西櫓
 その際、一度は城を明け渡すそぶりを見せ、仲介にきた信之まで欺いた。戦国時代の時間かせぎの常套(じょうとう)手段だが、肉親の情に頼った息子の浅慮を、強烈に指摘したとも受け取れる。

 「昌幸は元々、(大切な)沼田城を信之に任せていたし、教育も、長く手元に置いた信之に傾注していた」と寺島館長補佐は言う。その分、年少のころから上杉景勝や豊臣秀吉らに人質に出し、まさに客地から学ばせた幸村に比べ、信之の甘さを不安視していた。上田城をめぐる戦いは、昌幸にとって、たもとを分かった信之に与えた試練でもあったのである。

見込み通りの律儀さ

 昌幸が信之に真田家を託したのは、その律儀さゆえであろう。

 信之は、昌幸が最初に家康と戦った第一次上田城合戦で、大久保忠世ら徳川勢を誘い込むおとりとして前線に立っている。徳川勢は約7000、真田勢の約4倍の大軍である。父と真田家を守る信念なしには、迫り来る弓矢の前には立てなかったであろう。

 関ケ原の戦い後には、信之は、父弟の助命を必死に家康らに嘆願した。上田城の抵抗で関ケ原の戦いに遅参し、家康の激しい怒りを買った秀忠は、昌幸、幸村らの切腹を主張した。『常山紀談(じょうざんきだん)』によると、信之は「ならば父より先に自分に切腹を命じてほしい」と願い出たという。信之は、昌幸の謀(はか)りごとで面目を失ったにもかかわらず、父を恨みすらしていないのである。

 死を免じられた昌幸は、幸村とともに高野山麓の九度山に流されるが、その生活費の多くは信之の元から出された。信之の妻もしばしば、手紙や鮭の子などの土産を送っている。

 昌幸は亡くなる1カ月前、病床から信之に、平癒(へいゆ)後は十数年ぶりになんとか一度会いたい、と書を送っている。信之の律儀さ、情愛の深さはおそらく、昌幸の見込んだ通りだったに違いない。

 真田一族の活躍と分裂を見つめ続けた上田城は平成の今、大手門の内部が展示室になり、昌幸、幸村とその息子、大助の3人の人形などが飾られている。まるで幸村が城主を務めたような印象すら受ける。

 昌幸の家康への反発心、武将としての野望を受け継いだのは、昌幸の死までの9年間、九度山で蟄居生活を共にした幸村である。その幸村が、大坂の役で、昌幸譲りの縦横無尽の戦術で武名を轟かせたことを思えば、この扱いもやむを得まい。

 しかし、仮に、真田家のために生涯を尽くした信之が今、この城を見たとしても、「父と弟が喜んでくれるなら」と、目を細めてほほ笑むような気がする。2人の息子の性格、適性をそこまで見抜き、家の安泰と「真田」の高名の両方を手に入れた昌幸はやはり、稀代の策士だったと言うべきだろう。

家の安泰と高名を手中に


 紀伊半島の中央部に、標高1000㍍級の山々に囲まれた高野盆地が広がる。四季を通じて気温は麓より数度は低い。長野県真田町と似た気候だ。

 その盆地の入り口に真田氏の菩提(ぼだい)寺、蓮華定院(れんげじょういん)がたたずむ。入り口には、真田家の紋、六文銭が描かれた提灯(ちょうちん)がかかり、寺の宿坊で使う調度品や什器(じゅうき)にもその紋が入る。10畳ほどの畳間「上段の間」は、1度焼失しているが、基本的な造りは、真田昌幸と次男の幸村が関ケ原の戦いの後、流された慶長5(1600)年当時そのままと伝えられる。

 「真田のファンの皆さんは武勇伝を期待して来られますが、ここ高野山での暮らしはいたって素朴なものだったようです」と、添田隆昭住職は話す。昌幸は、信州の長男、信之に再三、仕送りを頼んだり、赦免(しゃめん)の仲介を願っていたという。

 たとえば、昌幸は書状で「臨時の扶助金40両のうち、まだ着かない残りの20両を早く送ってほしい」と催促している。晩年には、信之の側近に、信之の病気平癒(へいゆ)の祝いを述べ、自分も患っていることを伝えたりしている。

 死去する1、2年前、信之に宛てた書状には、老いを自覚した昌幸の弱音ものぞく。筆跡から、幸村の代筆と見られるが、その要旨は次のようなものだ。

 〈そちらの様子を承りたい。こちらは変わったこともないから、ご安心下さい。しかし、この一両年は年をとり、くたびれました。ここの不自由、ご推量ください。我ら、大くたびれ者になりました〉

 昌幸は蟄居(ちっきょ)から9年後、65歳で他界した。信之は、昌幸の葬儀を故郷で盛大に行おうとしたが、幕府の目をはばかった。結局、上田に廟所(びょうしょ)を建てず、先祖の地、真田郷の長谷寺に埋葬した。

高野山から大坂城へ

 昌幸の死後、幸村は一層わびしく暮らしたと伝えられる。坊の一角には今、幸村が書いた2通の書状の写真が、額に入れて展示されている。

 1通は、山の麓の親しい左京という人物に出したもので、「焼酎を壺2個分、その口までいっぱいに詰めてほしい」と所望する内容だ。武将のものとは思えないほどつましい文面だが、逆にそこから、率直な人柄も伝わってくるようだ。

 「幸村が大坂城で戦ったときの統率力を見れば、彼の人柄を慕っていた侍も多かったのではないか、と想像できますね」と添田住職は言う。

 幸村は、この蟄居の土地で、息子2人を含む5人の子供に恵まれ、二男六女の父親になったという。

 だが、幸村が昌幸から受け継いだのは、罪人としての静かな生活だけではなかったとも伝わる。『武将感状記』によると、昌幸は臨終の間際、徳川と豊臣の手切れを見越し、大坂の役についての密計を幸村に授けた。信之を藩主に戴く松代藩の記録には、その戦法は、南北朝期に楠木正成が採った陽動作戦と策略を再現させた、と評されている。

 慶長19(1614)年10月、幸村は、豊臣家の招きで大坂城に向かう際、監視役だった近所の庄屋らに酒食を振る舞い、酔いつぶして高野山麓の九度山を抜け出したという。江戸時代の川柳では、その様子はこう読まれた。

 〈村中を酔わせて真田ずっと抜け〉

 酒食を振る舞う名目は父、昌幸の法事だった。幸村にとっては、徳川を討つことは父の法事だったのであろう。

 大坂に向かった一行は長男、大助を含む約100人。下山方法や大坂へのルートについては諸説あるが、はっきりは分かっていない。

鬼神のように戦い

 幸村は大坂冬の陣では、大坂城東南に出丸の「真田丸」を築き、敵を近くまで引き寄せてから銃撃などで撃退する戦術で徳川勢を苦しめた。それは、昌幸が、上田城をめぐる徳川勢との合戦で何度も用い、最も得意とした戦法だった。

 豊臣家が滅んだ大坂夏の陣では、7人の影武者を使って徳川の大軍を混乱させ、家康の本陣に肉薄したとも言われる。冬の陣での武略を恐れた家康は、信之らを通じて幸村を調略しようとしたが、幸村は寝返らなかった。

 「花のようなる(豊臣)秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて」

 滅亡する豊臣家のための絶望的な戦いで、鬼神のように働き、それに殉じた幸村を、後の庶民はこう歌ってたたえた。

 大阪市天王寺区、安居神社の境内には今、幸村の戦死跡碑が立つ。幸村は碑の近くの田のあぜで休息中、松平忠直隊に首を取られたと伝わる。享年47歳。昌幸の死から6年後だった。

 信之は、父と弟の死の前後、病床にあったが、大坂の役の後、つきものでも落ちたように回復。その後、当時としては驚異の93歳まで長命した。あたかも真田の家名を保つという、昌幸の願いをかなえるように。

 幸村の子孫については、宮城県出身の小西幸雄氏が『仙台真田代々記』(宝文堂)で、次男の大八が仙台伊達家の直臣になっていたという説を発表し、話題になった。大坂落城の際、姉の阿梅(おうめ)らとともに伊達家に保護されたという内容で、最近まで公開されていなかった『仙台真田系譜』を根拠にしている。

 ただしこの説は、研究者の間では、徳川幕府に従う伊達政宗が幸村の男児を引き取るはずはないという判断から、強く否定されている。真偽はともかく、こうした説が現代になっても出るのは、幸村の根強い人気の証しであり、その高名こそ昌幸が求めたものだったであろう。


 ※この記事は2000年8月から12月にかけて産経新聞で掲載した連載記事「21世紀に語りつぐ 親と子の日本史」を再録したものです。登場人物の肩書き、団体名などは執筆当時のものです。