もはや本件東芝での騒ぎは改めて状況解説するまでもないほど有名になってしまったが、今年4月に発覚した「不適切会計」から4ヶ月遅れての決算発表、過去の決算修正を経て室町正志会長の新社長就任という流れで一件落着したように見える。

 新聞やビジネス誌もこの大口不正の極みともいえる東芝の不正について、人事の機微から組織の論理まで、あらゆる角度からメスを入れ、またオリンパス、日興証券からライブドア事件にいたる各種類例との比較に余念がない。

 東芝という企業体自体が持つ奇異さというのは、1987年の東芝機械ココム違反事件に遡る。日本ではもちろん著名な名門企業である一方、海外では原子力発電の類のビッグプラントビジネスの一角であるにもかかわらず安全保障の世界での評判が地に堕ちている理由は「TOSHIBA」というブランドが冷戦時代からの大口のやらかしの歴史と不幸な紐付けをもたれてきたことによる。

 30年の時を経てなお東芝という組織が何をやる存在なのか分からないとまで言うつもりはない。ただ、当時の通産省から冷戦の象徴でもあったココム(対共産圏輸出調整委員会)のタラリゴ議長の逸話まで振り返ると、東芝に限らず組織の安定が慣性(惰性とも言う)を強く持つ社風がそのまま昭和の面影を掲げて現代にタイムスリップしているようにも感じる。社業を発展させた功労者に対する配慮から当局に対する過剰な迎合にいたるまで、今回の不適切会計と構造があまりにも一緒なのだ。

 東芝も、過去にずっと申し送りされてきた決算作業を続けてきただけであるから、誰に責任があるかどころか、それが問題となって修正に追い込まれ歴代トップの責任追及の具になってしまうなど考えたこともなかっただろう。実際、事件化した当初は、すでに新聞各紙が配慮しながらも不適切な決算処理についての報道が始まっているにもかかわらず、東芝の面々の当事者意識はとても薄いものであった。「それが問題である」という認識が乏しいのだから仕方ないのだが、刑事事件に発展し逮捕者まで出したオリンパス事件と比べて東芝が第三者委員会で「監査法人への隠蔽の意図を認定している」ことが明るみに出てもなおチャレンジの名の下に繰り返し事実上の粉飾を実施していた咎はどう判断されるべきなのか。

 海外に目を向けると、文字通り粉飾決算の塊であったエンロン事件と比べても、仕組みの巧拙や規模の大小はともあれ簿外債務の隠蔽や架空売上の付け替えを実施し、監査法人の目をどうかいくぐるか組織ぐるみで不適切会計を行ってきたという点では等しい。本来であれば、東芝は厳しい市場からの再定義や総括を経て刑事事件化や解体に向かうことも可能性としては少なからずあった。

2015年3月期決算に関する記者会見を行う東芝の室町正志会長兼社長=2015年9月7日午後、東京都港区
 表向きは、決算修正とトップの刷新をもって東芝事件の幕引きがされてしまっている以上、さらに論難するのも野暮とは思う。一方で、そういう不祥事を弁えず、しかるべき公正な議論を経て正面から事件を捉え、一定の処置を粛々と断行することができなかったというのは、本来襟を正すべき当局の配慮によるものなのか、あるいは敗北だと表現されるものなのか微妙な線だとも言える。本来であれば、不適切会計などと言いよどみ、この問題を起こした名門企業のブランドに配慮をするよりは、粉飾であるときちんと指摘し、第三者委員会でも認定された隠蔽の意図の存在を前面に出して、厳正な対処を日本社会全体の問題として実施することのほうが望ましい処置であったようにも思う。仮にも、日本が規制緩和や構造改革を行い、事前の行政による統制から事後の法的救済を拡充していくという世界的なスタンダードに沿った改革をしていくのであれば、返り血を浴びようとも市場関係者や国民がある程度納得しうる公平な処分を行ってしかるべきだと考えるからである。

 ライブドアやオリンパスが刑事事件化する一方、日興証券や今回の東芝がメディアぐるみで腫れ物扱いとなり温存されるというのは、もちろん組織に従事している社員や株主にとってみれば救済なのかもしれないが、ある種の法の下の平等からすると日本の市場が当局やメディアによる配慮によって歪められる危険性もまた存在する。その結果として、市場の透明性は損なわれ、世界的な市場間競争からさらに日本の市場は劣化していると判断されて、最終的に国民の損害となって国益を損なうことになるのだ。

 東芝の粉飾額2,248億円は、規模で見てもオリンパス事件の二倍であるだけでなく、その処理において厳正な処置が行われなかったことは、今後の大きな課題となるだろう。それは、東芝単体の問題というよりも今後同様の問題が起きたときに東芝側のように配慮をされる組織なのか、オリンパス側のように海外メディアからも袋叩きに遭って摘発まで至るものなのかの分かれ道が、市場関係者だけでなく国民の間でも視認できてしまうようになるわけだ。

 「大きければ救われるのか」といわれる事件は日本にも海外にもたくさんある。大きい組織には存続する理由があり、失われたときの社会全体へのダメージもまた大きいからだ。しかし、西武グループやダイエーのように、本格的に衰退の局面に入り抵抗力が弱まったところで摘発され解体ショーが行われるというのは現代におけるパンとサーカスに等しい。実力も存在感もある組織だからこそ、しかるべきコンプライアンスを果たさなかったとききちんとした処罰が行われなければ同じような事件は次々と起きるだろう。

 問題を温存して徐々に解決したほうが、きちんと告発して襟を正すよりもコストが安いと考える仕組みだけは作ってはならないのではないだろうか。