平野聡(東京大大学院教授)

 訪日中国人のマナーが最近話題になっている。とはいえ、マナーを知らずルールを守れない人間がいるのは万国共通であるので、少なくとも「○○人だから必ず××である」という類いの安易なレッテル貼りは避けたい。

 そもそも、日本人のマナーも常に褒められたものなのか。様々な国から「クールジャパン」「行きたい国」と呼ばれ、底の浅い自画自賛をしてはいまいか。今から約41年前、サンケイ新聞の記者・論説委員を経て自民党所属の参議院議員を務めた長谷川仁氏は、著書『知らなすぎる中国 (体験的大陸論)』(ダイヤモンド社)の中で、昭和日本人の行状を次のように痛罵している。

 外地で見る日本人の振る舞いの粗暴さは、弁解のしようがない。観光団に接してみると一目瞭然だ。朝の食堂からバスの車中、夜の観光地めぐり、そして深夜のゲームに至るまで、ワイワイガヤガヤの連続である、三人集まると酒を飲み、メートル (平野注:メーター=気勢の度合いのことか?) があがるときまって流行歌か軍歌の合唱。ホテルの食堂では、周囲の迷惑もかえりみず大声でわめく。

 名所旧跡でも平気で「君子自重」すべきところで立小便。夜のゲームとなると、金持ちに似合わず、遊びがケチで、三流、四流の街の姫君を連れこんでセックス・アニマルとくる。これでは世界中どこの国に行っても、もてるわけがない。商店街や観光業者にしてみれば、一応“お客はカミサマ”だから内心は憂うつでも我慢している。(165頁)

 今日、中国人観光客のマナーとしてやり玉に挙げられる事例と、約40年前の日本人観光客、果たしてどれだけ異なるのだろうか。その後、日本では約40年をかけて、一応マナーが良くなったとすれば、結局のところ、社会的な取り組みや個々人の意識の変化を経て次第に変わったということであろう。したがって、今後の中国でもこのような動きが進むことを期待する=「百年河清を待つ」しかない、ということになる。

 ちなみに長谷川氏は、日本人が泥酔して見境なき行為に及び、後で「水に流そうとする」ことについて、中国では「自律を知らない最悪のマナー違反と見なされる」と切って捨てる。確かに、中国・台湾・香港では、どれほど「乾杯」を重ねようとも絶対に泥酔しないよう、誰もが神経質になりながら場を盛り上げている(互いの面子や場の序列を「無礼講」で壊すことは、人間関係の何たるかを知らない愚の骨頂である)。日本人自身が考えるべきマナーの問題も、依然として完全にはなくなっていない(交通機関や名所旧跡で声が大きく我が物顔な日本人に遭遇すると暗い気分になる。喫煙マナー、渋谷でのハロウィン後のゴミ散乱など、衆人環視の管理が行き届いていないところで、マナーやルールの不心得がしばしば露呈するではないか)。

 それでも、筆者が以前から中国や諸外国で目の当たりにしてきた中国人観光客のマナー問題は、量的に大規模だけに悩ましい。凄まじい勢いで増加する観光客のマナー違反に対する現地社会の忍耐の限界が、「百年河清を待つ」よりも先に到来してしまう可能性もある。筆者としては、国籍を問わず日本を知り、楽しみたいという人は全て歓迎したい。しかし同時に、最近の香港問題の展開を考えれば、マナーの悪い観光客の余りの急増が政治問題に転化する恐れも否定できない(筆者の見るところ、チベット問題など中国の民族問題においても、観光客の存在は深い陰を落としている)。果たしてどうしたものか。

 少なくとも中華人民共和国でも、外国を良く知ることで次第に洗練されたマナーを身につけた人は少しずつ増えている。彼らは、観光地やホテル・公共交通機関における同胞の行状を目にして恥じ入り、社会的な調和がより保たれている外国のありさまを目にして、謙虚に学ぼうとしている。

 とりわけ、日中関係が良くないにも関わらず、敢えて日本にやって来る観光客や、日本と関わろうとする人々の一定数は、共産党のイデオロギーを決して鵜呑みにすることなく自分で判断し、外国の良いところを取り入れたいと考える人々である。たとえば最近の中国で、『知日』というムック本が驚異的な売り上げを誇っているのはそのあらわれである。

 彼らが本当に日本を楽しんでいるらしいことは、例えば神社仏閣の絵馬から見て取れる。中共が長年来、靖国神社の存在を「妖魔化」していることから、神社と一言聞けば身構える中国人もいることはやむを得ない。その一方、日本人が台湾や香港を訪れれば仏教・道教寺院に詣でる如く、神社仏閣を訪ねた中国人観光客が簡体字で願いを託しているのを見かけると、微笑ましい気分になる(筆者が思うに、日本と中国の御利益信仰的な宗教観は似ていると思う)。

 一部の韓国人が「日本人は読めないだろう」と早合点し、わざわざ「独島は韓国の土地」と落書きして回るのと比べれば、中国からの訪日観光客に悪意はないものと考える (そもそも、党のいうことを真に受けて「反日」を叫ぶ中国人「憤怒青年」は、海外旅行はおろか国内旅行する余裕もない、社会的に厳しい境遇に置かれた層である)。

 あるいは、ごく最近出版された宇田川敬介氏の『ほんとうは中国共産党が嫌いな中国人』、あるいは青樹明子氏の『中国人の頭の中』でも示されている通り、そもそも彼らは極端な話「天下」の住人であって、場合によっては中国共産党、あるいは中国・中国人という縛りすらどうでも良いと思っている。

 ちなみに、そんな状況のもと依然として共産党に従うとすれば、取り敢えず自分の生活と将来設計にとっての便宜に基づいており、そんな期待が全社会で続く限り中共は続く。期待がなくなれば、石平氏の最新刊『暴走を始めた中国2億6000万人の現代流民』が論じるとおり、共産党の支配は中国歴代王朝末期と同様に吹き飛びかねない。だからこそ習近平氏は強権政治に走るとともに、対外的に強硬な態度を見せざるを得ない。

 それにもかかわらず、依然としてマナーをめぐる問題はある。その鍵を単刀直入に言えば、中国の歴史が長きにわたって「万人の万人に対する闘争」であったこと、あるいはモノやサービスを求める需要に対して供給が圧倒的に足りない国であったことによる。

 中国の歴史ではたびたび大規模な戦乱や飢饉があり、地震は少ないにせよ生きづらい環境が長く続いて来た。そんな中、独裁権力にせよ何にせよ、政治の力が人々に安心をもたらそうと努めればまだ良かったものの、権力者は往々にして真逆の存在であった。一握りの聖人君子の集団が「民を思い」君臨すれば、自ずと安定が実現するものと思い込み、税金や労役で民力を吸うだけであった。

 但しその代わり、官僚の数そのものは人口に対して極端に少ない。その結果、人々は政治的・社会的なサービスには何も期待しない一方、官の世界がなるべく自分に関わらず、没交渉であることを良しとした。こうして、統治そのものは「皇帝による中央集権・独裁」のイメージとは裏腹に粗放なものとなり、十分な管理やサービスが提供されない結果、誰もが不安定な社会の中で他者との争奪戦を展開しなければ生きていけなくなった。


 したがって、中国社会では伝統的に、不特定多数の社会や他人を安易に信頼することはない。信頼は、使いうるコネをフルに動員して自ら作るしかない。そこで権力者には、「紅包」と呼ばれる「賄賂と後ろ指を指されない程度のカネやモノ」を渡して保護を願う。

 いっぽう日常生活では、血のつながった一族や朋友の関係を固めるしかない。自分を取り巻く顔見知りへの極めて強い信頼・配慮と、見ず知らずの他者に対する不信・配慮の無さは、同じ源から発する現象である。漠然とした不安まみれの混沌を生き抜くためには、絶対に他人を押しのけてでも自己主張し、得た利益は気前よく身内で分け合う。そうすることで、一族や仲間内における自らの位置づけ=面子を上げるのである。

 しかし、これは生存共存上、やむを得ずそうするに過ぎない。その必要が無くなる=他者を信用し、自分も他者からの信用に応えたいと思えるような秩序が存在するのであれば、自ずとマナーやモラルは高まる。これが現在の香港・台湾、あるいは日本社会に適応した在日中国人の姿ということになる。

 ところが中華人民共和国は、この種の相互信頼をつくることに失敗しただけでなく、毛沢東時代の過酷な支配により、生存競争の混沌を極限まで深めた。全ての価値は毛沢東が独占し、誰もが「毛沢東への近さ」を主張して他人を罵倒しなければならなくなったし、個人で工夫して豊かさを追求すれば「資本主義の権化」として抹殺された。

 他人を信用できず、隙を見せたら罵倒され、何事も手を抜くしかなく、そのくせ自分だけは生き延びようという発想に陥らざるを得なかった。その後、中国は改革開放で、表向きの物質的には豊かになったかも知れない。

 それでも、外資依存と大都市偏重の発展、そして共産党がいつでも個人の信条と創意工夫に介入する可能性がある中、本当に他者を信頼して互いに貢献しようという境地はなかなか根付きにくい状況がある。

 このように見れば、一部のマナー無き中国人が (1) 行列を無視したり、バイキングで食べきれない量を山盛りにしたり、試食コーナーの食べ物を食べ尽くしたりするのは、目の前で確保しうるものを先んじて確保しなければならないという生存競争の歴史の遺産である。(2) 大声で会話するのは悪意ではなく、互いに信頼し合う親しい間柄では盛り上がりたい(中国語で「開心」という)という思いの表れである。日本人でもこういう人はいるだろう。(3) 何かを注意すれば大声で反論し、飛行機の遅れなどサービスの不全に対し激しく抗議するのは、自己主張せず黙っていれば相手の「無茶(=無情無理)」を認めてしまい、自らの面子を失うという緊張感の表れである。(4) 立ち入り不可なスペースに勝手に入ったり、勘定の前に商品を我が物として開封してしまうのは、彼らなりの基準で「別に迷惑はかけていない。制限を設けないのが悪」と考えていることの表れである。(5) 「爆買い」は、自国の製品(=他者)をなかなか信用できない中、単なる自己防衛というにとどまらず、贈り物を買う自らと、与えられた側の面子をともに高め、相互扶助し合うための手段である。

 しかし、そこでは往々にして、不特定多数の他者への配慮や責任はない。婉曲な表現や態度で場を和らげようという発想も薄い(中国の中国語は、台湾・香港や華人社会の中国語と比べて簡素で直接的である。簡体字と、繁体字=正字が併記された案内の看板などを見れば一目瞭然である)。それは、日本はもとより、他者への配慮や婉曲を愛する社会と異なる世界であると言って良い。

 それでも、配慮と婉曲の文化・社会の方が良いと思う中国人は確実にいる。したがって、究極的には中国の内部が次第に改まり、相互信頼の社会に変わって行くことが望ましい。そうすれば自ず、マナーやモラルの問題も「よりまし」になって行くであろう。とはいえ、共産党の支配による深刻な社会矛盾と経済の悪化が続く限り、万人の万人に対する闘争と相互不信(そして、それを押さえると称する共産党の言説が信じられてしまう状況)は変わらない。したがって、マナーやモラルをめぐる問題は続くという、暗い予想にならざるを得ない。

ひらの・さとし 歴者学者、政治学者。1970年横浜市生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院法学政治学研究科教授。博士(法学)。専門はアジア政治外交史。博士論文を出版した『清帝国とチベット問題』(名古屋大学出版会)で、2004年にサントリー学芸賞受賞。著書に『清帝国とチベット問題――多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)、『興亡の世界史(17) 大清帝国と中華の混迷』(講談社,)、『「反日」中国の文明史』(筑摩書房〈ちくま新書〉がある。